ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』のエピグラム

スペクタクルの社会 (ちくま学芸文庫)

スペクタクルの社会 (ちくま学芸文庫)

孫子『兵法』から(とされている)。

あなたが置かれた立地と状況がいかに危機的なものであろうと、何も絶望してはならない。あらゆることが危惧される機会においてこそ、何も危惧する必要はなくなるのである。あらゆる危険に取り巻かれている時こそ、何一つ恐れる必要がなくなるのである。いかなる手段もない時こそ、あらゆる手段に頼らねばならないのである。不意打ちを受けた時こそ、敵自身の不意を突かねばならないのである。

キム・ステルレルニー『ドーキンスvs.グールド』より

ドーキンス VS グールド (ちくま学芸文庫)

ドーキンス VS グールド (ちくま学芸文庫)

「第6章 淘汰と適応」から。

 進化生物学における大きな論争のひとつは、進化的な変化を説明する上で、変異の供給と淘汰のどちらの役割が相対的に大きいかをめぐるものだ。この論争については、ドーキンス自身が『登れそうもない山を登る』のなかであげている「存在し得るすべての貝殻の博物館」という事例を通して知ることができる。細部の違いを除けば、あらゆる貝殻は三つの要素で異なっているにすぎないことが知られている。ひとつの平面内での巻き方の大小、その平面からどれだけ上に延びているか、内部の空洞[チューブ]の広がり方である。そこで、存在し得る貝殻の形態すべてを、三次元の立方体として表すことができる。それぞれの次元が、貝殻がたがいに異なっている三要素に対応する。この立方体のなかのどの一点も、ひとつの存在し得る貝殻を表している。ある決まった値で巻きが広がり、ある決まった値でチューブが広がり、ある決まった値で上に延びているのである。こうした存在しえる貝殻の大多数は実在せず、われわれが知る限り過去にも存在したことがない。立方体の大部分は空白のままなのだ。この「失われた貝殻」をどう説明すればいいのか? このような失われた変異種は、貝の系統には生み出せないものだったのだろうか? 貝殻をつくり出す系統は、失われた貝殻を作り出すのに十分な数の変異を残さなかったのだろうか? そうではなく、失われた貝殻は、作るコストがかかりすぎたり、巨大すぎたり、脆すぎたりしたために、淘汰によってはじき出されたのかもしれない。
 こうした問いにはいまだに答えが出されていない。貝殻についてだけでなく、一見すると存在可能に思えながら、いまだかつて実在したことのない動植物の多くについて答えは得られていないのである。なぜケンタウロスは実在しないのか? 走るのが大変なためか、背中の痛みに苦しみやすいためかもしれない。しかし、単に六本の肢を持つ哺乳類が淘汰の対象になったことがなかったからかもしれないのだ。ドーキンスはこうした問題に対し、淘汰主義者の立場に立つ傾向がある。彼は、ある系統に開かれている進化可能性は、長い目で見れば豊かだと考えている。したがって、系統の歴史の大部分は、そうした可能性の一部を現実のものにする淘汰によって決定される。たとえば、実在するイガイの貝殻を強靱で分厚く、平べったいものにしたのは淘汰なのである。一方、グールドは、ある系統に開かれている可能性の幅はかなり限定されており、多くの場合、現在の状態からの小さな変異のみに限られているという見方に立とうとする。したがって、系統の歴史の大部分は、可能性の範囲を決定したできごと−−たとえば脊椎動物が最大でも四本の肢しか持たないように決定づけたできごと−−によって形成されたことになる。
 この相違点に、もうひとつの違いが加わる。ドーキンスにとって、進化生物学の中心的課題は適応的な複雑さを説明することだが、これはグールドの進化生物学に対する見方とは異なっている。グールドは古生物学者としてのキャリアのかなりの部分を、生命の歴史には、自然淘汰では説明できない大規模なパターンがあると論じることに費やしている。この二人のさらなる相違点は、こうしたパターンの存在と重要性をめぐるものである。

フェリックス・ガタリ他『〈横断性〉から〈カオスモーズ〉へ』より

フェリックス・ガタリの思想圏―“横断性”から“カオスモーズ”へ

フェリックス・ガタリの思想圏―“横断性”から“カオスモーズ”へ

フランソワ・パン「フェリックス・ガタリ−−アンガジェした思想家」から。

 七〇年代の初頭はさまざまな共同体がフランスの都市や田舎のいたるところにつくられていった時期である。そういった動きにおいてもフェリックス[・ガタリ]の果たした役割には大きなものがある。一九六六年にすでにフェリックスはセヴェンヌ[フランス南部にある山岳地帯]に大きな建物を取得していて、それが七〇年代の初めに共同体生活の実験場になった。彼はいわば〈青年の宿〉[労働者たちが自主管理する宿泊システム]を復興したのであり、その記憶は六八年の闘いに参加した多くの人々の記憶に刻み込まれている。極左翼のすべての運動がこの地で夏期大学を組織し、そこにはいかなるセクト主義も入り込む余地がなかった。アナーキストトロツキストマオイストなど、あらゆる党派が毎夏ここに集い、共同の考察の時期を過ごしたのである。こうして、このセヴェンヌの地は、七〇年代の初頭に正真正銘の共同生活の実験場となり、この時期にあちこちでつくられた共同体の参照基準になった。それは単にこの革命の〈退潮期〉に改めて革命を起こすために作業しようということだけではなくて、フェリックスには、男と女、そして大人と子どものあいだの諸関係を改めてつくりなおそうというモチーフがあった。この実験はきわめて大きな影響を与え、政治的な考察にさまざまな存在相互のあいだの新たな関係領域をつくりだそうとしたフェリックスの重要性は大いに高まった。このとき、政治的なディスクールのなかにスキゾ分析が持ち込まれたのである。実際、この時期、ジル・ドゥルーズとともに『アンチ・オイディプス』を出版したフェリックスにとって、無意識は単に家族に接続するものではなくて、政治に接続するものであり、過去ではなくて、未来に接続するものであった。
 ともあれ、この時期はあらゆる種類のオルタナティブな運動が発動し始めた時代であり、狂気や子ども、フェミニズムとの新しい関係が創出されようとしていた。「監獄情報グループ」(GIP=Groupe Information sur les Prisons)を主宰していたミシェル・フーコーにならって、フェリックスを中心としてGIA(Groupe Information sur les Asiles=精神病院情報グループ)という、旧来の精神医学に取って代わろうとするネットワークがつくられ、それはベルギーやアメリカ合衆国、イタリア、スペインなどにも波及していった。弁護士を結集して、活動家の擁護をするとともに、弾圧に抗して闘う組織もつくられた。またフェリックスのまわりでは、FHAR(同性愛者の革命的行動戦線)、堕胎の権利を獲得するための女性グループなども活動を展開していた。こうした政治的活動はイデオロギーばかりを弄び、分裂を繰り返すトロツキストマオイストアナーキストのさまざまな諸党派、そして七〇年代の半ば以降はイタリアのアウトノミアの影響を受けた「自立主義者」などの周辺で、相対的に独立的な仕方でおこなわれていた。しかしフェリックスはこうした諸党派の純粋にイデオロギー的な論争には興味を示さなかった。彼が興味を示したのは、ものの考え方・感じ方を変えることができるもの、創造活動との関係、労働との関係、人々相互のあいだの関係といったものを本当に変えることができるものだけであり、そこに彼の全エネルギーが動員された。彼は彼自身が〈分子革命〉と呼ぶものにかかわるすべてのものを支持した。

スティーヴン・ジェイ・グールド『パンダの親指』より

パンダの親指〈下〉―進化論再考 (ハヤカワ文庫NF)

パンダの親指〈下〉―進化論再考 (ハヤカワ文庫NF)

「30章 天然の誘引力」から。

 この世界は人間には感知できないさまざまな信号に満ちている。微少な生物は、われわれの知らないいろいろな力が作用している別の世界で生きている。ヒトに近い大きさの動物でも、多くのものは、われわれがもっている感覚に関してヒトの知覚範囲をはるかに超える能力をもっている。コウモリ類は暗やみのなかで、私には聞きとることのできない高周波音を発し、障害物から反響させ、それを感受することによって、その物体を避けて飛ぶことができる(その音を聞くことのできる人もまれにはいるが)。昆虫には、紫外線が放射されるのを見抜き、花による"見えない"ハチミツへの導きをたどって、自分の食物と、別の花へ運んで受粉させるべき花粉にたどりつくものが多い(ただし、植物がこうした定位に使われる色模様をつくりだすのは自分たちの利益のためで、昆虫の便宜を図っているのではない)。
 それにしてもわれわれ人間は、なんと知覚力の乏しい代物なのだろう。自然界のなかで見、聞き、嗅ぎ、さわり、味わうことのない、かくも多くの、かくも魅惑的な、かくも現実的なものに取り囲まれていながら、平凡な魔術師たちのトリックを知ったとき自分たちの視野の外にある心霊界をかいま見たかのように誤解してしまうほど、われわれは新奇な力を求めるあまりにだまされやすく、惑わされやすい。超日常的なものは幻想だともいえる。たしかにそれは、ほら吹きたちの安息所である。けれども"超人間的"な知覚能力は、鳥やミツバチやバクテリアなど人間の身近にあるものに備わっている。そしてわれわれは、自分で直接に感じることのできないものを感知し理解するために、科学が生みだしたもろもろの機器を使うことができるのだ。

スティーヴン・ジェイ・グールド『パンダの親指』より

パンダの親指〈上〉―進化論再考 (ハヤカワ文庫NF)

パンダの親指〈上〉―進化論再考 (ハヤカワ文庫NF)

「7章 ラマルクの微妙な色合い」から。

 一九世紀末期には、多くの進化論者がダーウィン自然淘汰説に代わるものを求めていた。彼らはラマルクを読みなおしたうえで、その核心(発生が連続することと、複雑化を起こさせる諸力があること)は退け、機構論の一面−−獲得形質の遺伝−−だけを、ラマルク自身は考えてもいなかったような焦点の中心にもってきたのである。さらに、これらの自称"ネオラマルキアン"たちの多くは、進化とは切実な要求に対して生物自体が能動的かつ創造的に反応する結果であるというラマルクの根本理念を捨ててしまった。彼らは獲得形質の遺伝という概念を保持したが、その獲得については、受動的な生物が刻印的作用をもつ環境から直接押しつけられるものと解釈したのである。
 私は現代の慣例にならって、ラマルキズムという言葉を、生物は適応的な諸形質を獲得することと、獲得した諸形質を変化した遺伝情報というかたちで子孫へ伝えることによって進化するという考えかたと定義しておこう。だが、私はこの名称が一五〇年前に死んだ非常にすぐれた学者を称えるものとしてはあまりに貧寒だということを、あえてことわっておきたい。[中略]
 ダーウィン自然淘汰説は、ラマルキズムよりずっと複雑である。それは、ただ一つの力ではなく、二つの別のプロセスを仮定するからだ。どちらの学説も適応の概念を基盤にしている−−つまり、生物は新しい状況に対して、より適した形態や機能や行動を進化させることによって、変わりゆく環境条件に対して反応するという考え方である。だから、どちらの説でも、環境からの情報が生物へ伝達されなければならない。ラマルキズムではこの乗り移りは直接的である。ある生物は環境の変化を察知して"正しい"やりかたで応答し、その適切な反応を子孫へ直接に伝えるのだという。
 これに対して、ダーウィニズムは変異と方向性の原因となるそれぞれ別の力をもつ二段階からなるプロセスである。ダーウィン主義者たちは第一段階である遺伝的変異を"ランダム"なものと考える。だが、このランダムという語は、あらゆる方向へ同じように起こりうるという数学的な意味で使われてはいないから、実はあまり適切な語ではない。それは単に変異が適応的な特定の方向性をもたずに起こるという意味で使われるにすぎない。たとえば、気温が低下したとき、ある個体が他のものより毛深ければそれだけ生存を続けやすいとしても、さらにいっそう毛深くなる遺伝的変異が高い頻度で起こりはじめるわけではない。次に、第二段階である淘汰は無方向性(unoriented)の変異に対して作用し、有利な変異体にそれだけ大きい繁殖上の成功を与えることによって、一つの個体群を変えていく。
 ラマルキズムとダーウィニズムとの本質的な違いはここにある−−基本的に、ラマルキズムは定向性(directed)の変異の理論なのだ。もし毛深いほうが都合がよいのならば、動物はその必要を知覚し、それを生育させ、その可能性を子孫へ伝える。したがって、変異は適応に向かって自動的に方向づけられ、自然淘汰のような第二の力を必要としない。しかし、ラマルキズムに表われた、方向性をもつ変異の本質的役割を理解しない人びとも多い。彼らはよく次のように主張する。環境は遺伝に影響する−−化学的または放射性の突然変異誘発源が突然変異率を高め、ある個体群の遺伝的変異のプールを拡大する−−のだから、ラマルキズムは正しいのではないかと。このメカニズムは変異の量を増やしこそすれ、変異を有利な方向へ推し進めはしない。ラマルキズムは遺伝的変異が適応的な方向へ選択的に起こると考えるわけである。[中略]
いま判断できるかぎりでは、ラマルキズムはこれまでそれが位置してきた領域では−−つまり遺伝的な受けつぎについての生物学的理論としては−−誤りである。けれども、ただ類比だけの話だが、まったく違う種類のもう一つの"進化"−−人類の文化的進化−−をもたらす"遺伝"の様式は、ラマルキズムだといえる。ホモ・サピエンスは少なくとも五万年以上前に現れた。そのとき以来、なんらかの遺伝的な向上があったという証拠は一つもない。普通のクロマニョン人は、適切な訓練を受ければ、熟練者と同じようにコンピューターを操作できるだろうと私は思っている(事実だけをいえば、クロマニョン人たちはわれわれ現代人より少し大きい脳をもっていた)。良かれ悪しかれ人類がなしとげてきたことはすべて、文化的進化の結果である。そして、われわれはこれまでの生命の歴史に対する尺度では測れないような速度で、それをやりとげてきた。地質学者たちは、地球の歴史を考える立場から数百年とか数千年という規模の時間を計ることはできない。にもかかわらず、この微々たる時間のうちに、われわれはある一貫した生物学的発明−−自意識−−の影響のもとに、地球の表面を変えてしまった。斧を携えた約一〇万の人間から、爆弾、宇宙船、都市、テレビジョン、コンピューターなどをもつ四〇億以上の人間へ−−しかも終始、本質的な遺伝的変化なしに。
 文化的進化は、ダーウィン的なプロセスがおよびもつかない速度で進んでいる。ダーウィン的な進化はホモ・サピエンスのなかでも続いてはいるが、その速さは人間の歴史にはもはやほとんど影響をもちえないほど遅々たるものである。
 地球上の歴史の要をなすこの一点が達成されたのは、とうとう最後にラマルク的なプロセスがその歴史に解き放たれたからにほかならない。人類の文化的進化の本性は、生物学的歴史とはまったくちがって、ラマルク的である。われわれは一世代の間に学んだことを、教えたり書いたりすることによって、次の世代に直接伝える。科学技術や文化に関しては獲得形質が受けつがれるのだ。ラマルク的な進化は迅速にすすむとともに蓄積されていく。このことは、過去の人類の純粋に生物学的な変化様式と、現代の人間の新しくて解放をもたらしそうな何かへ向かおうとする−−あるいは地獄へ向かおうとする−−狂気をはらんだ加速との根本的なちがいを物語っている。

ミシェル・フーコー『主体の解釈学』より

「1982年1月6日の講義」から。

真であるものや偽であるものについてだけではなく、真や偽といったものがあり、ありうるようにしているものについて問う思考の形式、これをもしよろしければ、「哲学」と呼ぶことにしましょう。主体が真理に至ることができるようにするものを問う思考の形式、主体の真理への到達の条件と限界を定めようとする思考の形式、これを「哲学」と呼ぶことにしましょう。さてそうしたものを哲学と呼ぶとすれば、主体が真理に到達するために必要な変形を自身に加えるような探求、実践、経験は、これを「霊性[スピリチュアリテ]」と呼ぶことができるように思われます。このばあい「霊性」と呼ばれるのは、探求、実践および経験の総体であって、それは具体的には浄化、修練、放棄、視線の向け変え、生存[エグジスタンス]の変容などさまざまなものであり得ます。それらは認識ではなく、主体にとって、主体の存在そのものにとって、真理への道を開くために支払うべき代価なのです。少なくとも西洋に現れる霊性は、三つの性格を備えています。
 霊性が原理として立てるのは、主体にはその正当な権利として真理が与えられるわけではない、ということです。そのものとしての主体は真理に到達する権利も能力も持たない、真理は主体が主体であり、これこれの主体の構造を持つがゆえに基礎づけられ正当化されるようなたんなる認識行為によっては主体に与えられない。真理に到達するための権利を得ようとするなら、主体は自らを修正し、自らに変形を加え、場所を変え、ある意味で、そしてある程度、自分自身とは別のものにならなくてはならない。霊性はこう主張するのです。真理は主体の存在そのものを問題にするような代価を払ってはじめて与えられる。というのはそのままでは、主体は真理を受け入れることができないからだ。私はこれが霊性を規定する、たいへん簡単ではありますがしかし根本的な言い方であると考えます。そしてここから帰結として次のことが出てきます。つまりこの観点から言えば、主体の変形ないし立ち返り[コンヴェルシオン]なしに真理はあり得ない、ということです。主体のこの立ち返り、この変形は霊性のもう一つの大きな側面ということになりますが、これはさまざまなかたちで行なわれることができます。非常に大ざっぱに(まだごく図式的な俯瞰ということになりますが)こう申し上げておきましょう、この立ち返りは、主体をその身分、その現在置かれている条件から引き離す運動(主体自身の上昇という運動。この運動によって、反対に真理が主体に到来し、そして霊感を与えるのです)というかたちでなされうるのです。これもまたお決まりの言い回しになってしまいますが、それが向かう方向はともかく、この運動をエロス(愛)の運動と呼ぶことにしましょう。それからもうひとつ、主体が真理に到達することができ、また行わなくてはならないような自己の変形のかたちとして労働(=働きかけ)があります。それは自己の自己に対する働きかけ、自己による自己の準備、自らの責任のもと、長い修練(アスケーシス)の辛苦のなかでなされる、自己による自己の段階的な変形です。西欧の霊性では、エロスとアスケーシスという二つの形式にしたがって、真理を受け入れることができる[キャパーブル]ようになるためには主体はどのように変形されるべきか、そのあり方が考えられてきたのです。
 最後に、霊性は真理への到達が、実際にその道が開かれたときにはさまざまな効果を生み出すと主張します。この効果は、もちろんそれに到達するべく踏まれてきた霊的な手続きの帰結ですが、それは同時にそれとはまったく別のもの、それをはるかに上回るものでもあるのです。この効果を、主体に対する真理の「反作用」と呼ぶことにします。霊性にとって、真理はたんに、いわば認識行為に報い、それを完成するために主体にあたえられるものではありません。真理とは主体に天啓を与えるものです。それは主体に至福を与えるものです。それは魂の平穏を与えるものなのです。つまり真理とそれへの到達には、何か主体自身を完成させ、主体の存在そのものを完成させるもの、あるいはそれを変容させるものがあります。要するに、こう言ってもいいでしょう、霊性にとって認識行為は、それ自体によっては、そしてそれだけでは真理への道を開いてくれることはけっしてない。それは主体の、つまり個人ではない、その主体としての存在における主体自身のある種の変形によって準備され、随伴され、裏打ちされ、完成されなくてはならないのだ、と。
 おそらく私がいま申し上げたことには、たいへん大きな反対があることでしょう。つまりグノーシス派というたいへん大きな例外があるからですが、これについてはあとでまたお話しする必要があるでしょう。ただ、たしかにグノーシス派とその運動全体は、認識行為にすべてを背負いこませた運動であり、実際それに真理への到達における至上権を与えた運動です。つまり認識行為に霊的な行為のあらゆる条件、あらゆる構造が担わされたのです。グノーシス派とは結局、認識行為そのもののなかに霊的体験の形式と効果をつねに置きかえ、移転しようとするものだったのです。図式的にこう申し上げておきましょう。古典古代とよばれるこの時期を通して、そのやり方はいろいろでしたが、「いかにして真理に到達するか」という哲学的問題と霊性の実践(真理への到達を可能にする、主体の存在そのものの不可欠な変形)、これら二つの問題、二つの主題はいちども切り離されたことはありませんでした。ピュタゴラス派にとってこれらが分かれていなかったのはあきらかです。ソクラテスプラトンにおいてもやはり分かれてはいませんでした。〈自己への配慮〉はまさに、霊性の諸条件の総体、真理に到達するために必要な条件である、自己のさまざまな変形の総体を指し示しています。したがって古典古代を通じて(ピュタゴラス派、プラトンストア派犬儒派エピクロス派、新プラトン主義らを通じて)、(いかにして真理に到達するかという)哲学の問題と、(主体に到達するために必要な主体の存在自体における変形とはどのようなものだろうかという)霊性の問題、これら二つの問題は一度も分けられたことがなかったのです。もちろん例外はあります。重要で根本的な例外は[中略]アリストテレスです。しかし周知の通り、彼は古典古代の頂点ではなく、むしろその例外だったのです。

末木文美士『日本宗教史』より

日本宗教史 (岩波新書)

日本宗教史 (岩波新書)

「1 仏教の浸透と神々[古代]」から。

 聖徳太子をめぐる問題
 ところで、初期の仏教の展開を考える際に無視できないのが聖徳太子(五七四−六二二)の問題である。『古事記』は推古天皇(在位五九二−六二八)で終わっているが、その推古天皇の代に聖徳太子が現われ、古代仏教の画期を迎えたとされる。しかし、最近の研究では、太子に関する事績のほとんどは『日本書紀』の段階で創作されたものだという説もなされるようになっている。そこで、その問題点を探ってみよう。
 『書紀』によると、太子は用明天皇の長男であり、名は厩戸皇子、別名として豊耳聰[とよみみと]聖徳、豊聰耳法大王[とよとみののりのおおきみ]、法主王[のりのうしのおおきみ]、上宮[かみつみや]などが挙げられている。聖徳太子の名は『書紀』には見えず、さらにそれより遅れるものと考えられる。それでは、聖徳太子といえば、どのようなことが思い浮かべられるであろうか。推古天皇の皇太子として、六世紀末から七世紀はじめにかけての政治・文化の中心になり、冠位十二階や十七条憲法の制定、遣隋使の派遣、三経義疏[さんぎょうぎしょ](法華義疏・勝鬘義疏・維摩義疏)の撰述、四天王寺法隆寺の創建などが主要な業績として思い浮かべられるであろう。政治的には、後の律令制につながる中央集権体制を方向付け、文化的には篤い仏教信仰に裏付けられた飛鳥文化の花を開かせた、ということになろう。
 ところが、その事績の多くのものには、成立年代に関して疑問が呈されている。例えば、四天王寺は、蘇我馬子物部守屋を滅ぼしたとき、蘇我の側について参戦した太子が、戦勝を謝して建立したとされるが、古い記録はなく、実際の建立はかなり遅れるものと考えられる。三経義疏はなお真撰説をとる論者もあるが、中国で撰述されたものが日本に齎されたのであろうという説が有力になっている。太子の親筆本とされる宮内庁所蔵『法華義疏』写本は、天平一九年(七四七)に行信が見出したといわれるもので、それ以前の由来はまったく不明である。十七条憲法には、国司など、当時なかった職名が出てくるなど、問題点が指摘されている。
 このように、その事績の多くに疑問が呈されているばかりでなく、同時代史料とされてきていたものも、そのままに信じられないことが分かってきている。例えば、天寿国繍帳は、太子没後に、太子の往生した天寿国の様子を王妃橘大郎女が描かせたという意味の銘文が残されており、その中には、「世間虚仮、唯仏是真」という太子の言葉を伝えていることで有名である。しかし、そこに記された干支が持統四年(六九〇)に採用された儀鳳歴によっていることから、その成立が疑われるようになった。
 太子については、このように疑問が多く、その史実は明らかでない。どこまでが『書紀』の段階の創作であるかは検討の余地があるが、実際の厩戸皇子としての事績は今日伝えられているものよりかなり小さかったと見てよいであろう。しかしともあれ、『書紀』の段階にはすでに太子は常人を超えた聖人としての役割を与えられており、それはその後の太子信仰に引き継がれる。太子をめぐる伝説は平安時代に書かれた『聖徳太子伝歴』でほぼ完成する。しかし、その後も太子信仰はますます盛んになった。親鸞が強い太子信仰を持っていたことはよく知られている。

 政治と仏教の接するところ
 どこまで史実であるかという問題は今後の検討に委ねるとして、どうして太子信仰がこのように盛んになり、今日に至るまで衰えることがないのであろうか。その最大の理由はやはり天皇制との関わりに求められるであろう。『書紀』における太子の位置づけは皇太子であり、摂政という役割を与えられながら、天皇になることはなかった。後の時代の皇太子は次の天皇となるという地位であるが、太子の場合、そのことはまったく予想されておらず、それゆえ、当時の常態であった皇位をめぐる争いも起こらなかった。そもそも、厳密に言えば当時はまだ皇太子や摂政の制度もなかったはずであり、実際に太子がどのような地位にいたかも明らかでないが、ともあれ天皇にもっとも近く、天皇になることが可能なはずでありながら、はじめから天皇となることが念頭に置かれていない人物として、造形されている。
 このことは、日本の社会における仏教の位置づけを象徴する。仏教は国家体制のもっとも内奥まで浸透しながら、しかし、仏教の宗教的権威が政治権力とひとつとなることはなかった。ちょうどそのふたつの権威の接点のぎりぎりのところに聖徳太子は位置することになる。天皇のカリスマを最大限背景としながら、しかしもう一方では仏教者としての最高の宗教的聖人としての権威を兼ね備え、そこに自由に伝説を付加していくことが可能になったのである。
 このような太子の位置づけは、いささか突飛に聞えるかもしれないが、『源氏物語』の光源氏を思わせるところがある。光源氏もまた、天皇の子であり、将来天皇となることも可能な立場にあったが、臣籍に降り、源氏となった。それによって、天皇のカリスマを受け継ぎながら、しかも天皇には不可能な人生の自由を獲得する。『源氏物語』が不朽の名作として読み継がれてきた秘密のひとつは、このような光源氏の性格付けに成功したからではなかっただろうか。聖徳太子の場合と較べ合わせて興味深いところである。