キム・ステルレルニー『ドーキンスvs.グールド』より

ドーキンス VS グールド (ちくま学芸文庫)

ドーキンス VS グールド (ちくま学芸文庫)

「第6章 淘汰と適応」から。

 進化生物学における大きな論争のひとつは、進化的な変化を説明する上で、変異の供給と淘汰のどちらの役割が相対的に大きいかをめぐるものだ。この論争については、ドーキンス自身が『登れそうもない山を登る』のなかであげている「存在し得るすべての貝殻の博物館」という事例を通して知ることができる。細部の違いを除けば、あらゆる貝殻は三つの要素で異なっているにすぎないことが知られている。ひとつの平面内での巻き方の大小、その平面からどれだけ上に延びているか、内部の空洞[チューブ]の広がり方である。そこで、存在し得る貝殻の形態すべてを、三次元の立方体として表すことができる。それぞれの次元が、貝殻がたがいに異なっている三要素に対応する。この立方体のなかのどの一点も、ひとつの存在し得る貝殻を表している。ある決まった値で巻きが広がり、ある決まった値でチューブが広がり、ある決まった値で上に延びているのである。こうした存在しえる貝殻の大多数は実在せず、われわれが知る限り過去にも存在したことがない。立方体の大部分は空白のままなのだ。この「失われた貝殻」をどう説明すればいいのか? このような失われた変異種は、貝の系統には生み出せないものだったのだろうか? 貝殻をつくり出す系統は、失われた貝殻を作り出すのに十分な数の変異を残さなかったのだろうか? そうではなく、失われた貝殻は、作るコストがかかりすぎたり、巨大すぎたり、脆すぎたりしたために、淘汰によってはじき出されたのかもしれない。
 こうした問いにはいまだに答えが出されていない。貝殻についてだけでなく、一見すると存在可能に思えながら、いまだかつて実在したことのない動植物の多くについて答えは得られていないのである。なぜケンタウロスは実在しないのか? 走るのが大変なためか、背中の痛みに苦しみやすいためかもしれない。しかし、単に六本の肢を持つ哺乳類が淘汰の対象になったことがなかったからかもしれないのだ。ドーキンスはこうした問題に対し、淘汰主義者の立場に立つ傾向がある。彼は、ある系統に開かれている進化可能性は、長い目で見れば豊かだと考えている。したがって、系統の歴史の大部分は、そうした可能性の一部を現実のものにする淘汰によって決定される。たとえば、実在するイガイの貝殻を強靱で分厚く、平べったいものにしたのは淘汰なのである。一方、グールドは、ある系統に開かれている可能性の幅はかなり限定されており、多くの場合、現在の状態からの小さな変異のみに限られているという見方に立とうとする。したがって、系統の歴史の大部分は、可能性の範囲を決定したできごと−−たとえば脊椎動物が最大でも四本の肢しか持たないように決定づけたできごと−−によって形成されたことになる。
 この相違点に、もうひとつの違いが加わる。ドーキンスにとって、進化生物学の中心的課題は適応的な複雑さを説明することだが、これはグールドの進化生物学に対する見方とは異なっている。グールドは古生物学者としてのキャリアのかなりの部分を、生命の歴史には、自然淘汰では説明できない大規模なパターンがあると論じることに費やしている。この二人のさらなる相違点は、こうしたパターンの存在と重要性をめぐるものである。