スティーヴン・ジェイ・グールド『パンダの親指』より

パンダの親指〈上〉―進化論再考 (ハヤカワ文庫NF)

パンダの親指〈上〉―進化論再考 (ハヤカワ文庫NF)

「7章 ラマルクの微妙な色合い」から。

 一九世紀末期には、多くの進化論者がダーウィン自然淘汰説に代わるものを求めていた。彼らはラマルクを読みなおしたうえで、その核心(発生が連続することと、複雑化を起こさせる諸力があること)は退け、機構論の一面−−獲得形質の遺伝−−だけを、ラマルク自身は考えてもいなかったような焦点の中心にもってきたのである。さらに、これらの自称"ネオラマルキアン"たちの多くは、進化とは切実な要求に対して生物自体が能動的かつ創造的に反応する結果であるというラマルクの根本理念を捨ててしまった。彼らは獲得形質の遺伝という概念を保持したが、その獲得については、受動的な生物が刻印的作用をもつ環境から直接押しつけられるものと解釈したのである。
 私は現代の慣例にならって、ラマルキズムという言葉を、生物は適応的な諸形質を獲得することと、獲得した諸形質を変化した遺伝情報というかたちで子孫へ伝えることによって進化するという考えかたと定義しておこう。だが、私はこの名称が一五〇年前に死んだ非常にすぐれた学者を称えるものとしてはあまりに貧寒だということを、あえてことわっておきたい。[中略]
 ダーウィン自然淘汰説は、ラマルキズムよりずっと複雑である。それは、ただ一つの力ではなく、二つの別のプロセスを仮定するからだ。どちらの学説も適応の概念を基盤にしている−−つまり、生物は新しい状況に対して、より適した形態や機能や行動を進化させることによって、変わりゆく環境条件に対して反応するという考え方である。だから、どちらの説でも、環境からの情報が生物へ伝達されなければならない。ラマルキズムではこの乗り移りは直接的である。ある生物は環境の変化を察知して"正しい"やりかたで応答し、その適切な反応を子孫へ直接に伝えるのだという。
 これに対して、ダーウィニズムは変異と方向性の原因となるそれぞれ別の力をもつ二段階からなるプロセスである。ダーウィン主義者たちは第一段階である遺伝的変異を"ランダム"なものと考える。だが、このランダムという語は、あらゆる方向へ同じように起こりうるという数学的な意味で使われてはいないから、実はあまり適切な語ではない。それは単に変異が適応的な特定の方向性をもたずに起こるという意味で使われるにすぎない。たとえば、気温が低下したとき、ある個体が他のものより毛深ければそれだけ生存を続けやすいとしても、さらにいっそう毛深くなる遺伝的変異が高い頻度で起こりはじめるわけではない。次に、第二段階である淘汰は無方向性(unoriented)の変異に対して作用し、有利な変異体にそれだけ大きい繁殖上の成功を与えることによって、一つの個体群を変えていく。
 ラマルキズムとダーウィニズムとの本質的な違いはここにある−−基本的に、ラマルキズムは定向性(directed)の変異の理論なのだ。もし毛深いほうが都合がよいのならば、動物はその必要を知覚し、それを生育させ、その可能性を子孫へ伝える。したがって、変異は適応に向かって自動的に方向づけられ、自然淘汰のような第二の力を必要としない。しかし、ラマルキズムに表われた、方向性をもつ変異の本質的役割を理解しない人びとも多い。彼らはよく次のように主張する。環境は遺伝に影響する−−化学的または放射性の突然変異誘発源が突然変異率を高め、ある個体群の遺伝的変異のプールを拡大する−−のだから、ラマルキズムは正しいのではないかと。このメカニズムは変異の量を増やしこそすれ、変異を有利な方向へ推し進めはしない。ラマルキズムは遺伝的変異が適応的な方向へ選択的に起こると考えるわけである。[中略]
いま判断できるかぎりでは、ラマルキズムはこれまでそれが位置してきた領域では−−つまり遺伝的な受けつぎについての生物学的理論としては−−誤りである。けれども、ただ類比だけの話だが、まったく違う種類のもう一つの"進化"−−人類の文化的進化−−をもたらす"遺伝"の様式は、ラマルキズムだといえる。ホモ・サピエンスは少なくとも五万年以上前に現れた。そのとき以来、なんらかの遺伝的な向上があったという証拠は一つもない。普通のクロマニョン人は、適切な訓練を受ければ、熟練者と同じようにコンピューターを操作できるだろうと私は思っている(事実だけをいえば、クロマニョン人たちはわれわれ現代人より少し大きい脳をもっていた)。良かれ悪しかれ人類がなしとげてきたことはすべて、文化的進化の結果である。そして、われわれはこれまでの生命の歴史に対する尺度では測れないような速度で、それをやりとげてきた。地質学者たちは、地球の歴史を考える立場から数百年とか数千年という規模の時間を計ることはできない。にもかかわらず、この微々たる時間のうちに、われわれはある一貫した生物学的発明−−自意識−−の影響のもとに、地球の表面を変えてしまった。斧を携えた約一〇万の人間から、爆弾、宇宙船、都市、テレビジョン、コンピューターなどをもつ四〇億以上の人間へ−−しかも終始、本質的な遺伝的変化なしに。
 文化的進化は、ダーウィン的なプロセスがおよびもつかない速度で進んでいる。ダーウィン的な進化はホモ・サピエンスのなかでも続いてはいるが、その速さは人間の歴史にはもはやほとんど影響をもちえないほど遅々たるものである。
 地球上の歴史の要をなすこの一点が達成されたのは、とうとう最後にラマルク的なプロセスがその歴史に解き放たれたからにほかならない。人類の文化的進化の本性は、生物学的歴史とはまったくちがって、ラマルク的である。われわれは一世代の間に学んだことを、教えたり書いたりすることによって、次の世代に直接伝える。科学技術や文化に関しては獲得形質が受けつがれるのだ。ラマルク的な進化は迅速にすすむとともに蓄積されていく。このことは、過去の人類の純粋に生物学的な変化様式と、現代の人間の新しくて解放をもたらしそうな何かへ向かおうとする−−あるいは地獄へ向かおうとする−−狂気をはらんだ加速との根本的なちがいを物語っている。