ミシェル・フーコー『主体の解釈学』より

「1982年1月6日の講義」から。

真であるものや偽であるものについてだけではなく、真や偽といったものがあり、ありうるようにしているものについて問う思考の形式、これをもしよろしければ、「哲学」と呼ぶことにしましょう。主体が真理に至ることができるようにするものを問う思考の形式、主体の真理への到達の条件と限界を定めようとする思考の形式、これを「哲学」と呼ぶことにしましょう。さてそうしたものを哲学と呼ぶとすれば、主体が真理に到達するために必要な変形を自身に加えるような探求、実践、経験は、これを「霊性[スピリチュアリテ]」と呼ぶことができるように思われます。このばあい「霊性」と呼ばれるのは、探求、実践および経験の総体であって、それは具体的には浄化、修練、放棄、視線の向け変え、生存[エグジスタンス]の変容などさまざまなものであり得ます。それらは認識ではなく、主体にとって、主体の存在そのものにとって、真理への道を開くために支払うべき代価なのです。少なくとも西洋に現れる霊性は、三つの性格を備えています。
 霊性が原理として立てるのは、主体にはその正当な権利として真理が与えられるわけではない、ということです。そのものとしての主体は真理に到達する権利も能力も持たない、真理は主体が主体であり、これこれの主体の構造を持つがゆえに基礎づけられ正当化されるようなたんなる認識行為によっては主体に与えられない。真理に到達するための権利を得ようとするなら、主体は自らを修正し、自らに変形を加え、場所を変え、ある意味で、そしてある程度、自分自身とは別のものにならなくてはならない。霊性はこう主張するのです。真理は主体の存在そのものを問題にするような代価を払ってはじめて与えられる。というのはそのままでは、主体は真理を受け入れることができないからだ。私はこれが霊性を規定する、たいへん簡単ではありますがしかし根本的な言い方であると考えます。そしてここから帰結として次のことが出てきます。つまりこの観点から言えば、主体の変形ないし立ち返り[コンヴェルシオン]なしに真理はあり得ない、ということです。主体のこの立ち返り、この変形は霊性のもう一つの大きな側面ということになりますが、これはさまざまなかたちで行なわれることができます。非常に大ざっぱに(まだごく図式的な俯瞰ということになりますが)こう申し上げておきましょう、この立ち返りは、主体をその身分、その現在置かれている条件から引き離す運動(主体自身の上昇という運動。この運動によって、反対に真理が主体に到来し、そして霊感を与えるのです)というかたちでなされうるのです。これもまたお決まりの言い回しになってしまいますが、それが向かう方向はともかく、この運動をエロス(愛)の運動と呼ぶことにしましょう。それからもうひとつ、主体が真理に到達することができ、また行わなくてはならないような自己の変形のかたちとして労働(=働きかけ)があります。それは自己の自己に対する働きかけ、自己による自己の準備、自らの責任のもと、長い修練(アスケーシス)の辛苦のなかでなされる、自己による自己の段階的な変形です。西欧の霊性では、エロスとアスケーシスという二つの形式にしたがって、真理を受け入れることができる[キャパーブル]ようになるためには主体はどのように変形されるべきか、そのあり方が考えられてきたのです。
 最後に、霊性は真理への到達が、実際にその道が開かれたときにはさまざまな効果を生み出すと主張します。この効果は、もちろんそれに到達するべく踏まれてきた霊的な手続きの帰結ですが、それは同時にそれとはまったく別のもの、それをはるかに上回るものでもあるのです。この効果を、主体に対する真理の「反作用」と呼ぶことにします。霊性にとって、真理はたんに、いわば認識行為に報い、それを完成するために主体にあたえられるものではありません。真理とは主体に天啓を与えるものです。それは主体に至福を与えるものです。それは魂の平穏を与えるものなのです。つまり真理とそれへの到達には、何か主体自身を完成させ、主体の存在そのものを完成させるもの、あるいはそれを変容させるものがあります。要するに、こう言ってもいいでしょう、霊性にとって認識行為は、それ自体によっては、そしてそれだけでは真理への道を開いてくれることはけっしてない。それは主体の、つまり個人ではない、その主体としての存在における主体自身のある種の変形によって準備され、随伴され、裏打ちされ、完成されなくてはならないのだ、と。
 おそらく私がいま申し上げたことには、たいへん大きな反対があることでしょう。つまりグノーシス派というたいへん大きな例外があるからですが、これについてはあとでまたお話しする必要があるでしょう。ただ、たしかにグノーシス派とその運動全体は、認識行為にすべてを背負いこませた運動であり、実際それに真理への到達における至上権を与えた運動です。つまり認識行為に霊的な行為のあらゆる条件、あらゆる構造が担わされたのです。グノーシス派とは結局、認識行為そのもののなかに霊的体験の形式と効果をつねに置きかえ、移転しようとするものだったのです。図式的にこう申し上げておきましょう。古典古代とよばれるこの時期を通して、そのやり方はいろいろでしたが、「いかにして真理に到達するか」という哲学的問題と霊性の実践(真理への到達を可能にする、主体の存在そのものの不可欠な変形)、これら二つの問題、二つの主題はいちども切り離されたことはありませんでした。ピュタゴラス派にとってこれらが分かれていなかったのはあきらかです。ソクラテスプラトンにおいてもやはり分かれてはいませんでした。〈自己への配慮〉はまさに、霊性の諸条件の総体、真理に到達するために必要な条件である、自己のさまざまな変形の総体を指し示しています。したがって古典古代を通じて(ピュタゴラス派、プラトンストア派犬儒派エピクロス派、新プラトン主義らを通じて)、(いかにして真理に到達するかという)哲学の問題と、(主体に到達するために必要な主体の存在自体における変形とはどのようなものだろうかという)霊性の問題、これら二つの問題は一度も分けられたことがなかったのです。もちろん例外はあります。重要で根本的な例外は[中略]アリストテレスです。しかし周知の通り、彼は古典古代の頂点ではなく、むしろその例外だったのです。