末木文美士『日本宗教史』より

日本宗教史 (岩波新書)

日本宗教史 (岩波新書)

「1 仏教の浸透と神々[古代]」から。

 聖徳太子をめぐる問題
 ところで、初期の仏教の展開を考える際に無視できないのが聖徳太子(五七四−六二二)の問題である。『古事記』は推古天皇(在位五九二−六二八)で終わっているが、その推古天皇の代に聖徳太子が現われ、古代仏教の画期を迎えたとされる。しかし、最近の研究では、太子に関する事績のほとんどは『日本書紀』の段階で創作されたものだという説もなされるようになっている。そこで、その問題点を探ってみよう。
 『書紀』によると、太子は用明天皇の長男であり、名は厩戸皇子、別名として豊耳聰[とよみみと]聖徳、豊聰耳法大王[とよとみののりのおおきみ]、法主王[のりのうしのおおきみ]、上宮[かみつみや]などが挙げられている。聖徳太子の名は『書紀』には見えず、さらにそれより遅れるものと考えられる。それでは、聖徳太子といえば、どのようなことが思い浮かべられるであろうか。推古天皇の皇太子として、六世紀末から七世紀はじめにかけての政治・文化の中心になり、冠位十二階や十七条憲法の制定、遣隋使の派遣、三経義疏[さんぎょうぎしょ](法華義疏・勝鬘義疏・維摩義疏)の撰述、四天王寺法隆寺の創建などが主要な業績として思い浮かべられるであろう。政治的には、後の律令制につながる中央集権体制を方向付け、文化的には篤い仏教信仰に裏付けられた飛鳥文化の花を開かせた、ということになろう。
 ところが、その事績の多くのものには、成立年代に関して疑問が呈されている。例えば、四天王寺は、蘇我馬子物部守屋を滅ぼしたとき、蘇我の側について参戦した太子が、戦勝を謝して建立したとされるが、古い記録はなく、実際の建立はかなり遅れるものと考えられる。三経義疏はなお真撰説をとる論者もあるが、中国で撰述されたものが日本に齎されたのであろうという説が有力になっている。太子の親筆本とされる宮内庁所蔵『法華義疏』写本は、天平一九年(七四七)に行信が見出したといわれるもので、それ以前の由来はまったく不明である。十七条憲法には、国司など、当時なかった職名が出てくるなど、問題点が指摘されている。
 このように、その事績の多くに疑問が呈されているばかりでなく、同時代史料とされてきていたものも、そのままに信じられないことが分かってきている。例えば、天寿国繍帳は、太子没後に、太子の往生した天寿国の様子を王妃橘大郎女が描かせたという意味の銘文が残されており、その中には、「世間虚仮、唯仏是真」という太子の言葉を伝えていることで有名である。しかし、そこに記された干支が持統四年(六九〇)に採用された儀鳳歴によっていることから、その成立が疑われるようになった。
 太子については、このように疑問が多く、その史実は明らかでない。どこまでが『書紀』の段階の創作であるかは検討の余地があるが、実際の厩戸皇子としての事績は今日伝えられているものよりかなり小さかったと見てよいであろう。しかしともあれ、『書紀』の段階にはすでに太子は常人を超えた聖人としての役割を与えられており、それはその後の太子信仰に引き継がれる。太子をめぐる伝説は平安時代に書かれた『聖徳太子伝歴』でほぼ完成する。しかし、その後も太子信仰はますます盛んになった。親鸞が強い太子信仰を持っていたことはよく知られている。

 政治と仏教の接するところ
 どこまで史実であるかという問題は今後の検討に委ねるとして、どうして太子信仰がこのように盛んになり、今日に至るまで衰えることがないのであろうか。その最大の理由はやはり天皇制との関わりに求められるであろう。『書紀』における太子の位置づけは皇太子であり、摂政という役割を与えられながら、天皇になることはなかった。後の時代の皇太子は次の天皇となるという地位であるが、太子の場合、そのことはまったく予想されておらず、それゆえ、当時の常態であった皇位をめぐる争いも起こらなかった。そもそも、厳密に言えば当時はまだ皇太子や摂政の制度もなかったはずであり、実際に太子がどのような地位にいたかも明らかでないが、ともあれ天皇にもっとも近く、天皇になることが可能なはずでありながら、はじめから天皇となることが念頭に置かれていない人物として、造形されている。
 このことは、日本の社会における仏教の位置づけを象徴する。仏教は国家体制のもっとも内奥まで浸透しながら、しかし、仏教の宗教的権威が政治権力とひとつとなることはなかった。ちょうどそのふたつの権威の接点のぎりぎりのところに聖徳太子は位置することになる。天皇のカリスマを最大限背景としながら、しかしもう一方では仏教者としての最高の宗教的聖人としての権威を兼ね備え、そこに自由に伝説を付加していくことが可能になったのである。
 このような太子の位置づけは、いささか突飛に聞えるかもしれないが、『源氏物語』の光源氏を思わせるところがある。光源氏もまた、天皇の子であり、将来天皇となることも可能な立場にあったが、臣籍に降り、源氏となった。それによって、天皇のカリスマを受け継ぎながら、しかも天皇には不可能な人生の自由を獲得する。『源氏物語』が不朽の名作として読み継がれてきた秘密のひとつは、このような光源氏の性格付けに成功したからではなかっただろうか。聖徳太子の場合と較べ合わせて興味深いところである。