フェリックス・ガタリ他『〈横断性〉から〈カオスモーズ〉へ』より

フェリックス・ガタリの思想圏―“横断性”から“カオスモーズ”へ

フェリックス・ガタリの思想圏―“横断性”から“カオスモーズ”へ

フランソワ・パン「フェリックス・ガタリ−−アンガジェした思想家」から。

 七〇年代の初頭はさまざまな共同体がフランスの都市や田舎のいたるところにつくられていった時期である。そういった動きにおいてもフェリックス[・ガタリ]の果たした役割には大きなものがある。一九六六年にすでにフェリックスはセヴェンヌ[フランス南部にある山岳地帯]に大きな建物を取得していて、それが七〇年代の初めに共同体生活の実験場になった。彼はいわば〈青年の宿〉[労働者たちが自主管理する宿泊システム]を復興したのであり、その記憶は六八年の闘いに参加した多くの人々の記憶に刻み込まれている。極左翼のすべての運動がこの地で夏期大学を組織し、そこにはいかなるセクト主義も入り込む余地がなかった。アナーキストトロツキストマオイストなど、あらゆる党派が毎夏ここに集い、共同の考察の時期を過ごしたのである。こうして、このセヴェンヌの地は、七〇年代の初頭に正真正銘の共同生活の実験場となり、この時期にあちこちでつくられた共同体の参照基準になった。それは単にこの革命の〈退潮期〉に改めて革命を起こすために作業しようということだけではなくて、フェリックスには、男と女、そして大人と子どものあいだの諸関係を改めてつくりなおそうというモチーフがあった。この実験はきわめて大きな影響を与え、政治的な考察にさまざまな存在相互のあいだの新たな関係領域をつくりだそうとしたフェリックスの重要性は大いに高まった。このとき、政治的なディスクールのなかにスキゾ分析が持ち込まれたのである。実際、この時期、ジル・ドゥルーズとともに『アンチ・オイディプス』を出版したフェリックスにとって、無意識は単に家族に接続するものではなくて、政治に接続するものであり、過去ではなくて、未来に接続するものであった。
 ともあれ、この時期はあらゆる種類のオルタナティブな運動が発動し始めた時代であり、狂気や子ども、フェミニズムとの新しい関係が創出されようとしていた。「監獄情報グループ」(GIP=Groupe Information sur les Prisons)を主宰していたミシェル・フーコーにならって、フェリックスを中心としてGIA(Groupe Information sur les Asiles=精神病院情報グループ)という、旧来の精神医学に取って代わろうとするネットワークがつくられ、それはベルギーやアメリカ合衆国、イタリア、スペインなどにも波及していった。弁護士を結集して、活動家の擁護をするとともに、弾圧に抗して闘う組織もつくられた。またフェリックスのまわりでは、FHAR(同性愛者の革命的行動戦線)、堕胎の権利を獲得するための女性グループなども活動を展開していた。こうした政治的活動はイデオロギーばかりを弄び、分裂を繰り返すトロツキストマオイストアナーキストのさまざまな諸党派、そして七〇年代の半ば以降はイタリアのアウトノミアの影響を受けた「自立主義者」などの周辺で、相対的に独立的な仕方でおこなわれていた。しかしフェリックスはこうした諸党派の純粋にイデオロギー的な論争には興味を示さなかった。彼が興味を示したのは、ものの考え方・感じ方を変えることができるもの、創造活動との関係、労働との関係、人々相互のあいだの関係といったものを本当に変えることができるものだけであり、そこに彼の全エネルギーが動員された。彼は彼自身が〈分子革命〉と呼ぶものにかかわるすべてのものを支持した。