堀江敏幸×重松清対談「側道をゆく」より

早稲田文学』Vol.3より。

[重松]堀江さんが訳を手がける作品にも、もちろん疵があると思うんだけど、それもやっぱり肯定の意志とともに翻訳するの?
[堀江]プロの翻訳家だったら疵があっても引き受けると思うんです。ひとの繋がりや生活を確保しないと、良いものも出せなくなっちゃうから。それがプロですよね。でもぼくは翻訳者であって、プロの翻訳家ではないから、そこも6:4ですね。幸いなことに、6割以上肯定できるものしか訳してないんです。
[重松]逆に言えば、4までは受け入れるんだ。
[堀江]7割ぐらいだといいんですけどね。
[重松]さっきの紹介のときも言いかけたんだけど、ときどき思うのは、「自分の好きなものしか紹介しない」姿勢って、「あんたの「好き」ってそんなにエライのかよ」って。
[堀江](笑)
[重松]いっけん愛好家的なアマチュアリズムに見えるんだけど、じつは自分の価値判断を疑ってないわけでしょう? 「好き」じたいの定義や検証がないものも多いし。
[堀江]ある作品が好きだとか嫌いだと言うひとがいた場合、その発言の根拠は、単発のレビューだけじゃ、わからないですね。そのひとがこれまでなにを読んできて、どういうことをそれぞれの本について語っているか、それをぜんぶ見渡すことができて、はじめて好き嫌いの基準と、そういわせる文脈が見えてくる。もっといえば、「私」が出てくると思うんです。そのためには、足跡を見せておかなきゃならない。ひとつだけ感想を言っておしまいでは、言われた側の肥やしにもならないような気がしますね。重松さんの書評でも、これだけの小説を書いて、読んで、語っているんだっていう背景がなければ、読者に対して説得力が出ないでしょう。偉そうに聞こえるかもしれないけれど、自分が大事にしてきたものの総体として、特定の作品に対する好き嫌いは出てくるんだと思うな。
[重松]「好き」の表明も自己紹介ってことだよね。ただ、いまは無邪気に「嫌い」と言うひとも多いけど、「好き」も無責任に言われてると思うんだ。だから、堀江さんの「6:4」の部分に、たしなみを感じるわけ。自己中心的な「好き」じゃない「好き」を書こうとしてるんじゃないかと。
[堀江]そう読んでもらえるとうれしいですね。「純粋に好きだ」という言いかたがよくあるけど、一途に好きであることの恥ずかしさに対して、少し距離をとりたい。熱くなりすぎたときにひとが見せる表情の無防備さって、まったく裏側の熱狂とよく似てるところがある。そういうのはどうも苦手ですね。