大竹伸朗『カスバの男』

カスバの男 モロッコ旅日記 (集英社文庫)

カスバの男 モロッコ旅日記 (集英社文庫)

そして心臓をわしづかみにする空の青が奇妙な曲線と切れ込む直線で区切られたそこは、明らかにタンジールであった。その昔ブライアン・ジョーンズが、着いた初日彼女とのいさかいで窓をなぐり右手首を骨折した場所であり、ジャン・ジュネが岬の墓に眠る地であり、ジミ・ヘンドリックスが69年にツアー休暇に訪れたスポットであり、ウィリアム・バロウズが『裸のランチ』を執筆した地点であり、ポール・ボウルズが生涯の地として今も午後にミント・ティーを飲む場所でもある。
そんなことが頭に浮かぶのだが、タンジール港からトランクを強引に引っ張る自称ガイドを12人ばかりかわしながら乗り込んだボロベンツ・タクシーが街中に突入したとたんすべてを飛び越え、「ここが、それだ」という思いに僕は一気に染まった。

どうやらモロッコという土地は人々の神経を揺さぶるように直接作用するらしい。強烈な光と熱、1000年も前からそのままの迷路都市フェズ、何重にも重ねて貼り付けられたポスターやフロントガラスに照り映える薄汚れた壁。バザールと海。
大竹伸朗がモロッコを旅した記録風の書きモノだが、街をぶらつく描写や思索の他、色々な要素がまさにカットアップ状に挟み込まれ、文章に切れ込みを入れている様子は大竹のアート作品を彷彿とさせる。
たとえばこんな一文が、突然脈絡もなく挿し挟まれている。

先のとがった丸い鉄の棒を、車を運転する女に乗せてもらおうとするが、断られる。

なんだろう、「先のとがった丸い鉄の棒」って。だが私の脳裏にはその先のとがった丸い鉄の棒のシェイプが一瞬影のようによぎり、頭蓋を内側から突き刺す。この感覚はバロウズが「生」に見たもの、生きることはカットアップだと言った彼の神経に近いものがある。そしてまたこの体験は、冒頭に引いてある尾崎放哉の唐突さでもあるだろう。

あけがたとろりとした時の夢であったよ  尾崎放哉

おそらく、モロッコではこのような「夢」が身体を通り過ぎてゆくのに違いない。身の回りにあるものの「まったくほったらかしだがパーフェクトなたたずまい」、そこへの「溜息と嫉妬」をかき立てられながら書かれ貼り接がれている、宇宙へも繋がっているかもしれない文章の街路。

 目の前の、極限の光に包まれた通りを色とりどりのカフタン、ジェラバ姿の人々が行きかうのが確かに見えるのだが、瞬間、目の前の光景が宇宙の真っ暗闇と結びついてしまったような感覚におちいる。これほど光にあふれ、色が強烈な意志を持ち、自分の内側に入り込んだ体験は初めてだ。そしてその光景を紙に移動させることになんのためらいもないはずなのに、そのあいだにもうひとつ「間」が必要なことに気づく。きっと風景の中に坐り、見て描いたほうがいい風景と、目に焼きつけたまま汗だくで部屋に帰り、水のシャワーを浴びているときのほうがくっきり見えてくる風景とがあるにちがいない。その、見てから写しとるまでの「ズレ」の差は、風景の季節、その光や天候によっても大きく異なるのだろう。
 もしかしたら僕が体験してきたモロッコでの時間そのものも、そんな感じなのかもしれない。モロッコに関してまったく無知な自分の時間の流れの中で、体験が一瞬光り、そして徐々に消えていく。僕はいったい何を見たのだろう。なにをと言い切ることはできないが、確かになにかが、粘度の高い液体になって脳ミソの中をダルくのたくるのだ。

この「なにか」を感じたいのならば、文庫版解説を書いている角田光代のように、読み終えたらすぐさまモロッコ行きの航空券を買いに走るべきでしょう。文庫には単行本未発表の銅版画が収録されているけど、カラーで見れる方がよいかもしれないと思わされる。

裸のランチ (河出文庫)

裸のランチ (河出文庫)

尾崎放哉句集 (放哉文庫)

尾崎放哉句集 (放哉文庫)

カスバの女/夢は夢ひらく

カスバの女/夢は夢ひらく