マルセル・デュシャンと20世紀美術展@横浜美術館

デュシャンというのはとてもわかりにくい芸術家だなーとは以前から思っていたんですが、この「わかりにくさ」は他の「芸術家」から感じるものとはなんか違ってるという感触を捨て去ることができずにいました。それがなんなのかを確認しに、横浜まで。

マルセル・デュシャン全著作

マルセル・デュシャン全著作

デュシャンは語る (ちくま学芸文庫)

デュシャンは語る (ちくま学芸文庫)

デュシャンとの対話 (みすずライブラリー)

デュシャンとの対話 (みすずライブラリー)

展覧会はなかなかよかったですよー。ある一つのデュシャン「作品」と、それになんらかの形でリファーしている他の作家の作品をその左右に配してゆくという構成は、そのデュシャン作品からどのような可能性を作家たちが汲み出したかを連想させる。そして、そこでの連想物こそが展示品として考えうるという意味では、次のデュシャンの言葉に忠実な展覧会だったと言えるんじゃないかなと思います。ちょっと量子力学観測問題的な響きもしますが。

要するに、芸術家は一人では創造行為を完遂しない。鑑賞者は作品を外部世界に接触させて、その作品を作品たらしめている奥深いものを解読し解釈するのであり、そのことにより鑑賞者固有の仕方で創造過程に参与するのである。
(『マルセル・デュシャン全著作』より)

わたし自身の感想としては、デュシャン本人のそれを否定する言葉にもかかわらず、デュシャン作品が意外に美的だったのが驚きだった。「泉」なんかは実際見るとそっけないんだろうなーっていう先入観があり、確かにそれはそっけなかったのですが、絵画系の「階段を降りる裸体」やら、「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(大ガラス)なんかは意外なほどの視覚的快感がありました。コンセプチュアルなラディカルさと同時に、ある種美的な面もどこかデュシャンにはあったような。瀧口修造なんかが、このデュシャンの美的な面に惹かれていたということは否めない気がちょっとしますね〜。
カタログには平芳幸浩という方がデュシャンの受容史について小論を書かれていて勉強になるんですが、ジャスパー・ジョーンズ、ネオダダや荒川修作なんかがデュシャンに何を見たのかがわかりやすく解説されてます。たとえば「日常」と「芸術」の分離の廃絶(ここからは赤瀬川原平なんかの方向が)とか、「対象を対象として知覚し認識するプロセスを問い直す概念的な装置」(ここからは荒川修作が)としてとらえるといったように、様々な作家たちのデュシャン作品から引き継いだものが見て取れることは、収穫になりました。
印象としては、デュシャンは「変換・移行過程」そのものを芸術として提示した作家という感じが。「アンフラマンス」という概念とか、デュシャン作品のわかりにくさもここから来てるのかなあ、という気がする。「可能なものは生成物を内包するのだから−一方から他方への移行は、アンフラマンスにおいて起こる」なんてことを言ってるそうですし。他にもたとえば、異なる次元の間における転換とか、そういった無関係なもの同士の間で発生した結びつきのことを「アンフラマンス」なんて呼んでいたのかしら。などとつらつら思う。
最後にデュシャンの言葉、「レディ・メイド」の発想について語っている言葉を引用して締めまーす。

「つくる」とは何でしょうか。何かをつくること、それは青のチューブ絵の具を、赤のチューブ絵の具を選ぶこと、パレットに少しそれらを載せること、そして相も変わらず場所を選んで、画布の上に色を載せることです。それは相も変わらず選ぶことなのです。それで、選ぶために、絵の具を使うことができますし、絵筆を使うことができます。しかし、既製品も使うことができます。既製品は、機械的にせよ他人の手によってにせよ、こう言ってよければですが、すでにつくられているものでして、それを自分のものにできます。選んだのはあなたなのですから。選択が絵画においては主要なことですし、普通でさえあります。
(『デュシャンとの対話』より)

絵画に用いる道具とその他にある既製品を「選択」というアイデアにおいて等価に並べて制作を行うという発想は、やっぱり並大抵では出てこない気がします。今でこそ当たり前になった「レディ・メイド」という手法ですが、想像するに、出現した当初は(その意義が理解できた芸術家たちにとっては)まさに真に新しいものが出てきたという感じだったのでしょう。概念を刷新するということは、本当に難しいことでしょうからね……。