クレメント・グリーンバーグ『グリーンバーグ批評選集』より

グリーンバーグ批評選集

グリーンバーグ批評選集

モダニズムの絵画」から。

 私の見るところ、モダニズムの本質は、ある規律そのものを批判するために−−それを破壊するためにではなく、その権能の及ぶ領域内で、それをより強固に確立するために−−その規律に独自の方法を用いることにある。カントは論理の限界を立証するために論理を用い、その旧来の支配圏から多くのものを撤回したが、論理は、そこに残されたものをかえっていっそう安泰に保持するようにされたのである。
 モダニズムの自己−批判は啓蒙運動の批判から生じたが、それと同じものではない。啓蒙運動は外側から、つまりより一般的に受け入れられている意味での批判が取る方法で批判したのだった。だが、モダニズムは内側から、つまり批判されていくものの手順それ自体を通して批判するのである。この新しい種類の批判が、定義からして批判的なものである哲学において最初に現れたのは、当然なことと思われる。しかし、一九世紀が経過するにつれて、それは他の多くの分野でも自覚されるようになった。より合理的な正当化が、あらゆる正式な社会運動に要求され始め、ついに、「カント的な」自己−批判は、哲学とはかけ離れた領域においてこの要求に直面し、また解釈するよう求められたのである。
[中略]
 各々の芸術の権能にとって独自のまた固有の領域は、その芸術のミディアムの本性に独自なもののみと一致するということがすぐに明らかになった。別の芸術のミディアムから借用されているとおぼしき、または別の芸術のミディアムが借用しているとおぼしきどんな効果でも、各々の芸術の効果からことごとく除去することが自己−批判の仕事となった。それによって各々の芸術は「純粋」になり、その「純粋さ」の中に、その芸術の自立の保証と同様、その質の基準の保証が存在したであろう。「純粋さ」とは自己−限定のことを意味し、また芸術における自己−批判の企てとは徹底的な自己−限定のそれとなったのである。
 リアリズム的でイリュージョニズム的な芸術は、技巧を隠蔽するために技巧を用いてミディアムを隠してきた。モダニズムは、技巧を用いて芸術[アート]に注意を向けさせたのである。絵画のミディアムを構成している諸々の制限−−平面的な表面、支持体の形体、顔料の特性−−は、古大家によっては潜在的もしくは間接的にしか認識され得ない消極的な要因として取り扱われていた。モダニズムの絵画は、これら同じ制限を隠さずに認識されるべき積極的な要因だと見なすようになってきた。マネの絵画が最初のモダニズムの絵画になったのは、絵画がその上に描かれる表面を率直に宣言する、その効力によってであった。印象主義はマネに倣って、使用されている色彩がポットやチューブから出てきた現実の絵具でできているという事実に対して眼に疑念を抱かせないようにするために、下塗りや上塗りを公然と放棄したのだった。セザンヌは、ドローイングとデザインをキャンバスの矩体の形体により明確に合わせるために、真実らしさと正確さを犠牲にしたのだった。
 しかしながら、絵画芸術がモダニズムの下で自らを批判し限定づけていく過程で、最も基本的なものとして残ったのは、支持体に不可避の平面性を強調することであった。平面性だけが、その芸術にとって独自のものであり独占的なものだったのである。支持体を囲む形体は、演劇という芸術と分かち合う制限的条件もしくは規範だった。また色彩は、演劇と同じくらいに、彫刻とも分かち持っている規範もしくは手段だった。平面性、二次元性は、絵画が他の芸術と分かち合っていない唯一の条件だったので、それゆえモダニズムの絵画は、他には何もしなかったと言えるほど平面性へと向かったのである。