『ベンヤミン 救済とアクチュアリティ』より

ベンヤミン (KAWADE道の手帖)

ベンヤミン (KAWADE道の手帖)

松本潤一郎「労働と芸術−−ベンヤミンクロソフスキー」から。

自然を模倣することは、模倣するものが、みずからの特異性をおのずから展開させることである。おそらくベンヤミンにとって自然とは、確固として存在する何かではない。それはみずからを展開する運動であり、かつ他の自然を促し、作動させる。人間の本性は労働ではない。そして労働は自然ではない。人間の本性が自然である。模倣の能力はそれ自体が能力の自己展開=自然である。[中略]
労働から創造への移行は、手作業から脳の知的活動への移行(「必然の王国から自由の王国」)という、マルクスの理念でもあった。ナンシーはこの移行をポイエーシス(目的をもつ制作)からプラクシス(行為の自己目的化)への移行と整理したうえで、では労働に伴う汚れや苦痛は「自由の王国」では消えてしまうのかと問う。手も脳も身体であり、単純には分割できない。技術の進展によって労働が主として頭脳労働に移行したと仮に言えるにせよ、そこにおいて心身の疲弊・苦痛・摩耗が解消されるとは言えない。労働は救世主ではない。だが消費も救世主ではない。むしろ消費−監視体制下の「非正規」労働者における生産(労働? 芸術?)の様態を、あらためて問う必要がある。ガタリ的主体化の過程(「一望監視的超自我」から「フラクタル状のプシケー」へ)は、その手がかりになるかもしれない。消費−監視体制下の人間の本性=自然としての不安定な実存感から、みずからを生産するポイエーシスを走らせる、新たな抵抗様式の発明である。ベンヤミン的〈自然〉の潜勢力は、現在、そのように息づいているだろう。「労働」の否定ではなく、〈批判〉を通した革命の回路を、そこから導き出せるかもしれない。