池田雄一『カントの哲学』より

カントの哲学 (シリーズ 道徳の系譜)

カントの哲学 (シリーズ 道徳の系譜)

「第三章 出来損ないのサイボーグ、そして構想力の革命」から。

 カントは、自然を美的にみるということは、自然を技術の象徴として眺めることであると述べている。さきほどみた「道徳の象徴としての美」と比べてみると、ここでは象徴の役割がまるでちがうことがわかる。自然を技術の象徴として見ることによって「目的なき合目的性」という概念が可能になる。でないと、合目的性がある対象に、実体的な目的を措定してしまうからだ。目的の断頭台。ここで使われている象徴とはそのようなものだと考えられる。カントは丸天井の例の直後で、同様の例として別の「道具」をあげている。

 同じことが人間の形態における崇高なものや美しいものについても言うことができるのであって、その場合われわれは、人間のすべての肢体がそのために現存している諸目的の概念を、判断の規定根拠として振り返って見てはならないし、またたとえこれらの肢体が諸目的の概念と矛盾せず、実際にも美学的適意の一切条件であるとしても、そうした目的概念との合致をわれわれの(そうした場合はもはや純粋ではない)美学的判断に影響を与えさせてはならない[KU.B.119/240]

自分の手足を、何かの技術の産物のようなものとして眺めること。それは自己の身体を、解体され廃棄されたサイボーグの身体=部品としてみることを意味している。自分の、他人の手足が、いったい何のためにあるのか。それらのパーツに、合目的性を見出だすこと。それは対象への過度な転移という事態をも引き起こすだろう。しかしそれはいったい誰への、何への転移だというのか。趣味判断の主体はいったい誰なのか。判断をくだす当人なのか、それとも彼に憑依した不可視の誰かの意志なのか。カントにとって世界を美学的に見るということは、世界を怪物と化したサイボーグとして注視し、その声にならない機械音に耳を傾けるということではなかったのだろうか。