篠山紀信×中平卓馬『決闘写真論』より

Rag-Picker’s Hut

決闘写真論 (朝日文庫)

決闘写真論 (朝日文庫)

中平卓馬「仕事」から。

 メキシコの貧しい農村の土壁とそこで遊ぶ素朴な子供の姿。それをバックにした美しい半裸の都会風の女。われわれがインドを見る時にも、また旅の途上で異国を見る時にもこのように視線が金縛りに合い、あらかじめつくられた意味しか見ようとしないことがしばしばあるのではないか。視線がすでに「幻想性」を内に含んでいるのではないか。インドや旅ばかりではない。われわれが日頃ものを見る、その視線の構造はこのようなひとつの定式を内に含んでいるに違いないのだ。
 だが、真の幻想性とは、これとは正反対のものである。一本の鋭い視線、あくまでもすべてを貫き通そうとする眼の意志、すべてを内側に受け入れ、対象とそれを見る主体とその関係につねに疑問を提出し続けようとする眼の意志。それが涯てる先、視線が辿りついたぎりぎりのその向こう側に幻想の世界は出現するのだ。情緒的でセンチメンタルな視線は、世界も私もあいまいな混沌の中に沈めてしまうのだ。それは幻想でも何でもありはしない。ただのあいまいな彼岸と此岸の混同、眼差しの全面敗北である。
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 事物の細部、その線、輪郭、角度、色、それらすべての局限にまで鮮明な捕捉。その向こう側に幻想と幻視の領域が浮上する。逆に言うならば、視線の辿りつく涯て、まさに幻想の領域が浮上してくるその瞬間から私の解体は始まるのだ。
 極めて身近な事物のひとつひとつをあらためて見直すこと、そんな簡単なことでよい。われわれはそこに「同じもの」であると同時に「異なるもの」を発見するはずである。幻想、幻視を内的な神秘性として捉えることが第一にま違っているのだ。それはあくまでも怜悧な視線、一筋の直進する視線がついに失速するその瞬間に、その向こう側にひろがる世界の闇として浮上してくるものである。
 ここでもやはりユジェーヌ・アジェがひとつの手がかりをあたえてくれる。たとえば"Rag-Picker's Hut"(ごみ拾い人の小屋)というタイトルを付された小さな古ぼけた小屋の写真がある。文字通りの掘っ立て小屋である。左側の入り口と思われるところのドアは開け放たれている。いやドアは初めからないのかもしれない。小屋の正面全体に、さまざまなものが飾られている。屋根の上には二匹の犬。一匹は比較的大きくまるでこの小屋の番をしているようだ。
 いたち、あるいはかわうそを思わせる小動物。それは首を真っ直ぐにのばし、空を見上げるように胸をはっている。その真下、開け放たれたドアの右上に一羽のかなり大きな鳥が(キジか、水鳥か)羽を大きく拡げてはめ板の上にとまっている。鳥は頭を左にそむけている。どうやら鳥は死んでいる。と、すべてがわかってくる、犬もいたちも鳥もすべて剥製であるということが。
 その他、小さな天使像、いくつかの人形の首、小さな馬の細工物等々といったものがごちゃごちゃと並べられている。そして画面中央、この小屋の中ごろに木製の植木鉢が二本の足で小屋にすえつけられ、そこから十数本の糸が鉢を支えるように上に向かって放射線状に放たれている。その糸にまつわるようにツタが伸び二十枚くらいの葉が拡がっている。そのさらに左側、つまり小屋の左隅をなす部分だけが白く、そこには古いツタの這った跡が認められる。地面には一対の靴が置かれている。それは小屋の主人のものか。いずれにせよ、それだけが生々しい。すべてはあまりにも明確だ。あいまいさはいっさいない。
 しかし、それらのひとつひとつが明瞭であればあるほど、すべてが謎につつまれ始める。なぜか死のイメージが全体をつつみ始める。
 これはちょうど夢を思わせる。夢の中で細部はことごとく明瞭である。その明瞭さ、明確さが逆に不安を呼び起こすのだ。細部の並列的な明晰さ。それと反対に生まれる脈絡の欠如。夢の不安はここから派生する。
 ユジェーヌ・アジェの写真は見ることの不安を語っているかに見える。幻想はこのディティールの克明さと切っても切れない関係にある。