市野川容孝『身体/生命』より

身体/生命 (思考のフロンティア)

身体/生命 (思考のフロンティア)

p.105-106

 フロイトが同性愛の解放にどれだけ貢献したかについては、大いに議論の余地があるし、フロイトの中にも依然、正常志向というものが残り続けている。男根中心主義によって、女性を常に劣位に置く彼の考えも、フェミニズムから手厳しく批判されて然るべきものであろう。しかし、性的倒錯を「変質」へと囲い込んでいく当時の西洋近代医学の大勢との共時的な対抗関係においてフロイトが果たした政治的な役割を全く省略するならば、それは誤りである。フロイトは、こう述べている。「精神分析の研究は、同性愛を特殊な一群として他の人々から区別しようとする試みに対して断固として反対する。この研究は、顕在化したもの以外の性的興奮をも考察することによって、すべての人間は同性を〔性欲動の〕対象として選択する能力があり、事実、このような選択を無意識のうちにおこなっているのだということを明らかにしている」(「性理論に関する三論文」、同前、第5巻、16頁。ただし訳文は変えた)。
 この「三論文」が1924年に仏訳された際、タイトルは現題のSexualtheorie(性理論)の部分がthe'orie de la sexualite'となった。今日、さまざまなかたちでとりあげられ、フーコーもまたその歴史を繙こうとした「セクシュアリティ」という概念を正しく理解しよう。それは、フロイトがこの「三論文」で開示した性愛、すなわち「生殖という目標を無視して自由におこなわれる第一段階」の性愛なのである。フーコーが問いただしたのは、このセクシュアリティという概念が構成される際に作動する権力の問題、つまり「セクシュアリティの装置」であり、フロイトもまたこの装置の内部に位置づけられる。
 しかし、そのフーコーが同時に、フロイトについて次のように書いていることを人はあまりに省略しがちであり、また、それが意味するところを正確に理解していない。「もちろん現在では、フロイトの中にあったはずの正常化への意志について再検討することは可能である。何年も前から精神分析の制度が演じてきた役割を告発することも可能だ。しかし……19世紀に性の医学への組み込みを企てたテクノロジーの中では、精神分析学は、1940年代までは〈倒錯−遺伝−変質〉のシステムのもつ政治的・制度的な作用にはっきりと対抗したものだったのである」(『知への意志』新潮社、152頁)。