稲葉振一郎『経済学という教養』より

経済学という教養

経済学という教養

「第6章 市場経済と公益」から。

 以上で「不況・不平等・構造改革」の三題噺で新古典派経済学入門を、という本書の試みは一通り達成されたわけである。三題に絡めてまとめ直すと−−
 市場経済に対する「不平等をなくせない」という批判、そして新古典派経済学に対する「市場経済を弁護している」という批判に対してどう応えるか? ここで批判者の多くが「不平等」の中味について、いま一つ詰めて考えていないことに注意しよう。不平等な状態にも二種類あって、一つは「弱肉強食」、恵まれた者の富は弱者からの搾取によって購われていて、弱者の状態が絶対的に悪化しているようなものであり、いま一つはそれとは違い、富者の富は貧者からの搾取によっておらず、富者がより豊かになったからといってそのせいで貧者が(絶対的な水準では)貧しくなることはなく、かえってより豊かになることもある、という、いわば「共存共栄」の状態である。新古典派経済学が正当化する「不平等」とは後者のタイプのものである。新古典派経済学によれば、市場経済は不平等それ自体は回避できないものの、それを「共存共栄」の範囲にとどめるシステムなのである(思想史的に言えば、スミスがすでにここまで述べていた)。
 しかしながら現実には、市場経済は「弱肉強食」状態に陥ってしまうことがある。代表的なものは「不況」である。この不況を引き起こす原因は多々あるが、おそらくその中で最も重要なファクターは貨幣、市場経済という場を支えるメディアである貨幣の存在、それ自体である。貨幣が適切に供給されていなければ、市場経済は不況に陥り、「共存共栄」を実現できなくなる。そしてこの貨幣供給というタスクの責任を、個人や一般企業などの個別の経済主体に負わせることはできないのだ(この問題提起がケインズの貢献である)。
 市場経済批判者の多くは、このあたりを十分に理解しておらず、単なる不平等と「弱肉強食」とをごっちゃにしている。またじつは市場経済礼賛論者の中にも、まったく同じ混乱に陥っている者がいるらしい。「構造改革」論の一部に見られる、「景気が回復したら構造改革が遅れる」といった類の言説はそれを暗示している。
 しかしここで指摘したような区別をきちんと行うことによって、無用な市場経済批判が避けられると思われる。市場経済批判者は自分が何ゆえに「不平等」を好ましくないと考えるのか、よく吟味するとよいだろう。「弱肉強食」を否定しつつ、ある限度内での「不平等」は容認するという立場には、何ら不整合なところはない。