ジャック・デリダ『盲者の記憶』より

盲者の記憶―自画像およびその他の廃墟

盲者の記憶―自画像およびその他の廃墟

p.151-155

ところで、その名が示すように、アポカリプシスとは、啓示、裸にすること、見えるようにする開示であり、真理の真理、すなわち、おのれ自身を顕示する光にほかならない。これは絵画の黙示録である−−キリスト教的絵画としての。そこではすべてが、上から下まで、底辺から頂点まで、転倒されると同時に秩序回復される。しかし、黙示録の第二の意味は、第一の意味に継ぎ足されるのではない。啓示あるいは観想(Hazo^n)が明るみに出すものが、すでにそこにあったもの、永劫の彼方からそこにあったものであり、黙示録はこのそこを顕示するのだとしても、黙示録はさらにそれを、破局[カタストロフ]あるいは災害[カタクリスム]によって開示するのである。素描の起源において、秩序と廃墟はもはや分離されない。超越論的構造と供犠もまた、とりわけ供犠が、その起源、その可能性の条件、その出来事の到来を同時に顕示する場合、分離されることはない。それが作品というものである。作品とは、秩序であり同時にその廃墟である。自らの喪失を泣き悲しむものである。悲嘆と哀願は、眼差しを、まさしくそれが開示される瞬間に被覆する。落涙寸前で祈ることによって、聖なる寓意は何ごとかを行う。それはある出来事を産出することによって、その出来事を目に到達、到来せしめる。この寓意は行為遂行的であり、それは単なる視覚には出来ないことだろう。その視覚が、表象的確認にしか、明察にしか、理論すなわち観想にしか、あるいは演劇にしか機縁を与えないのなら。それがすでに、黙示録の潜在力を備えていないのなら。視覚に対しておのれを盲目にすることによって、おのれの視野を被覆することによって、ひとはおそらく、自分の目によって何ごとかを行う、そして、自分の目を何ものかにする。自分の目に対して何ごとかを行う。
[中略]
人が知っていると信じていることとは反対に、最良の視点(視点すなわち無視力こそわれわれの主題にして主体となるだろう)とは一つの源泉であり水源であって、それは涙へと立ち返るのである。目を開くこの盲目は、視覚を闇に沈める盲目ではない。啓示的盲目、黙示録的盲目、目の真理そのものを啓示する盲目とは、涙に覆われた眼差しだということになるだろう。この眼差しは見るのでもなく、見ないのでもない。それは曇った視界には無関心である。それは哀願する。まず第一に、この涙はどこから降りてきたのか、誰から目へと到来したのかを知るために。この喪は、あるいはこの喜悦の涙は、どこから、誰から到来したのか? そして、この目の水は?