ジル・ドゥルーズ『経験論と主体性』より

「結論 合目的性」から。

所与のなかに、わたしたちは諸関係を設定し、もろもろの全体を形成する。が、それらの全体は、所与に依存しているのではなく、わたしたちが認識している諸原理に依存しているのだ。それらの全体は、ひたすら機能的なものである。しかも、それらの機能は、所与が依存していながらわたしたちは認識していないもろもろの隠れた力と合致している。《自然》そのものに対する志向的合目的性のそうした合致を、わたしたちは合目的性と呼ぶのである。そうした合致は思考されたもの以外ではありえない。それはおそらく、もっとも貧困でもっとも空虚な思考である。哲学は、わたしたちがおこなうことについての理論として構成されるべきであって、存在するものについての理論として構成されるべきではない。わたしたちのおこなうことにはそれなりの諸原理がある。そして《存在》とは、わたしたちがおこなうことについての諸原理そのものに総合的に関係づけられる対象としてしか、決して把握されえないものなのである。