田中小実昌「ポロポロ」より

ポロポロ (河出文庫)

ポロポロ (河出文庫)

 ぼくがその部屋にはいっていったとき、父と母と一木さんが祈っていたと言ったが、父が牧師だったうちの教会では、天にまします我等の父よ……みたいな祈りの言葉は言わない。
 みんな、言葉にはならないことを、さけんだり、つぶやいたりしているのだ。それは、異言というようなものだろう。使徒行伝の二章にも、異言という訳語は見えないが、そういったことが書いてある。使徒たちが、自分がいったこともない遠い国の言語でかたりだしたというのだ。
 こんなふうに、記されたことでは、異言には、こういう意味があったというような場合が、それこそ記されてるが、実際には、異言は、口ばしってる本人にも他人にも、わけのわからないのがふつうではないか。うちの教会のひとは、異言という言葉さえもつかわなかった。ただ、ポロポロ、やってるのだ。
 このポロポロは、いわば、一木さんの口ぐせ(?)だった。ポロポロのもとは、使徒パウロだろう。しかし、一木さんは、パウロ先生の霊に、いつもゆさぶられてたかもしれないけど、これは、やはり、祈りのとき、ぽろぽろ、と一木さんの口からこぼれでたものにちがいない。
[……]
 だいたい、ポロポロやってると、うしろはふりかえらないようだ。うちの教会では、ポロポロを受ける、と言う。しかし、受けるだけで、持っちゃいけない。いけないというより、ポロポロは持てないのだ。
 持ったとたん、ポロポロは死に、ポロポロでなくなってしまう。あのとき、玄妙なありがたい御光をうけ、それを信仰のよりどころにし、一生だいじに……なんてことを、ふつう宗教では言う。
 だが、ポロポロは宗教経験でさえない。経験は身につき、残るが、ポロポロはのこらない。だから、たえず、ポロポロを受けなくてはいけない。受けっぱなしでいるはずのものだ。見当ちがいのたとえかともおもうが、これは、断崖から落ちて、落ちっぱなしでいるようなものかもしれない。
 それに、また、ポロポロを、いつも、たえず受けいれる心構えができてるかどうかといったことでもない。
 心構えの問題ならば、一定のそういう心構えに、つまりはセットしておけばいいかもしれない。だが、ポロポロは心構えではない。
 たえず、ポロポロくる。それを、たえず、ポロポロ受ける。うしろなんかふりむいてるヒマはないのではないか。忙しいといえば、この世のものではない忙しさだ。