河口慧海『チベット旅行記』より
- 作者: 河口慧海,長沢和俊
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 2004/08/01
- メディア: 新書
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断事観三昧
それからだんだん下って行くと、ずっと向こうに雪山がある。その山の北西方を見ると、テントが二つ三つ見える。どうも変だが、こんなところにも人が住んでいるのか、遊牧民でも来ているのかと思った。それはともかく、ここで一つの心配が起こった。あの家のある方向を指して行くと、あるいは彼は道のないところから出てきた怪しい奴と疑われ、チベット進入の目的を達することができないかも知れぬ。これはほかの道をとったほうがよかろうと考えて、他の方向を見たが、実に深山重畳として、ほかに取るべき道はどこにも見当たらない。その雪の山辺のテントのある横に、たいへん低い山間があって、その北が北西のほうに向かって走っている。まず間道でもありそうなところが、ちょっと見えている。どうもその方向へ指して行きたいような心持もした。
とにかくどうにか極りをつけなければならんと思って、まず荷物を下ろし、それからそこへゆっくりすわり込んだ。と言うのは、私は例の理論上で決められぬことがあると、いつも断観事三昧にはいって事を決めるのである。その例の手段を取ろうと思って、そこへ廓然無聖とすわり込んだわけである。
そもそもこの断事観三昧と言うことは、およそ事柄が道理で決められるときは、その道理において善悪の判断を定めると言うことはむずかしくない。ところが理論上において少しも決められぬことで、将来に対してはどういう事が起こって来るか、未定の問題については、何か一つ決めておかねばならぬ事がある。そのとき、私は仏院の坐禅を示された法則に従って、まず無我の観に入る。その無我の観中に発見された観念のある点に傾くのをもって、とるべき方法をいずれかに決定するのである。そこで仮にこれを断事観三昧と名づけた。すなわちこの方法によって、向かうところを決しようと思って、そこにすわって坐禅を組んで我を忘れていたのだが、そのときはどのくらい多くの時間を費やしたかも、自分ながらわからなかったのである。