檜垣立哉『生と権力の哲学』より

生と権力の哲学 (ちくま新書)

生と権力の哲学 (ちくま新書)

「おわりに」から。

生命はそれ自体として、本質的に意味づけられているわけではない。生命とは、言説の秩序としての政治性を侵食し、それによって秩序そのものを構成する外部にほかならない(あえていえば、それ自身は言説のなかでは無意味なものとしてしか機能しない)。こうした事情が抱え込む、非−人間的な力の露呈とシステムのあり方を見据えることが、フーコーの仕事を引き受け、フーコーの直面した問いを考えるために、不可避の姿勢である。
 だが、これを社会や言語という位相に接続することは、さまざまな困難をはらむとおもわれる。ドゥルーズ(=ガタリ)は、国家−社会論的な展開を構想しながらも、結局は脱コード化された超越なき空間の開示を、ありうべき倫理の方向性に重ねて描くだけという傾向が強い。アガンベンは排除的な包摂というパラドックスを指摘し、グレイゾーンとしてのパラドックス的状況を押さえることで、この困難を回避しようとする。ネグリは、情動の身体という生産の場面を検討することで、生命システムのなかの〈共にあること〉という倫理的位相を提示しようとするが、そこでの問いの原理性はなお開かれたままである。
 こうした課題を、最後に、フーコー当人に差し戻して探るには、どうすればよいのか。そこではやはり〈自己〉のテクノロジーという問題が、際立ってくるのではないか。
 フーコーの述べる〈自己〉(soi)とは、「人間」のことではない。それは西洋近代が基本的な範型として提示していた、「人間」である個人の位相ではない。そうした個人は、言説的な操作によって(否定を媒介として)つくられる幻影と描かれ、逆説的に根拠化される危険がある(ラカン主義が、それを行っている現代的ヴァージョンであるだろう)。フーコーの考える〈自己〉は、生権力に固有の各種テクノロジーによって、生命の位相を中心に産出されるものである。それは言説の生としての〈私〉が、異質なものである生命を、それ自身の対象として肯定するというクロスの作業によってとりだされる。そうしたクロスのさせ方こそに、テクノロジー=技術が語られることの意義がある。テクノロジーを語ることは、自己の位相を脱根源化させるとともに、自己自身を肯定的な生産の回路として見いださせ、そこに生命への抵抗としての倫理を語る拠点を編みだすものといえるからだ。
 あくまでもエピステモロジストでありつづけたフーコーは、こうした〈自己〉のテクノロジーについて、その系譜を辿るという作業以外は行わなかった。しかしこうした〈自己〉を、それが含意する倫理性において語ることは、フーコーの議論のひとつの焦点でありうるのではないか。それが意味するのは、あくまでもルサンチマンなき世界に向かう倫理である。そしてそうした構想において、フーコーの描く倫理を、ドゥルーズアガンベンが主題化している自己触発(affect)論、あるいはネグリ的な「主体」論が提示する情動(affection)としての〈共にある〉の議論と連関させていく道も示すことができる。言説的に構成される虚構としての自我ではなく、世界そのものを生き、世界のシステム性に他者とともに捉えられ、同時にそうしたシステム性を書き換えていく拠点としての〈自己〉を展望すること。そしてそうした〈自己〉を生きる倫理そのものを示すこと。
 こうした、権力と生命との境界に位置する〈自己〉論は、生命科学、生殖技術、性をとりまく諸装置や制度、生にまつわる諸労働、これらによりまさに切迫しつつさらに高度にテクノロジー化され、生命と〈私〉の位相が侵食しあう現代的な〈自己〉の姿に即して、そこでの倫理とともに描きだされるべきだろう。それが、〈生政治学〉による生と権力の原理性を考察した後に果たされるべき課題ではないだろうか。