マキャヴェッリ『君主論』より

君主論 (岩波文庫)

君主論 (岩波文庫)

「第9章」から。

 結論として唯一言っておきたいのは、いかなる君主においても民衆を味方につけておくのが必要だということである。さもなければ、動乱の時にあって手が施せない。スパルタの君主ナービスは全ギリシア軍と常勝を誇るローマ軍との包囲攻撃に耐えて、これらと戦い祖国と自分の政権とを守った。そして危機に襲われても、ごく少数の者たちから身を守るだけでよかった。それが、もしも民衆を敵にまわしていたならば、とうていこれだけでは足りなかったであろう。そしてこのような私の意見に対して、民衆の上に基礎を置く者は泥の上に立つがごとし、という、あの言いふるされた諺を持ち出して、反駁する人などいないことを願う。なぜならば、市井の一私人がその上に基礎を置いたつもりで、敵や執政官[マジストラーティ]たちから圧力を加えられたときに民衆が自分を救ってくれるだろうなどと思い込んだ場合には、それが真実になるから。そのような場合には、しばしば欺かれるだろう。たとえばヨーロッパにおけるグラックス兄弟のごとくに、またフィレンツェにおけるジョルジョ・スカーリのごとくに。けれどもその上に基礎を置いたのが、命令を下すことのできる、君主であるならば、そして逆境のなかでも狼狽えない勇敢な人物であって、他の備えを怠ることもなく、勇猛果敢に万人を鼓舞するならば、民衆に欺かれることは決してないであろうし、またみずからの基礎が確固としたものであることを思い知るであろう。
 このような君主政体が危機を迎えるのは、通常、市民による制度から絶対的な機構へと上昇するときである。なぜならば、このような君主たちは自分自身で命令を下すか、さもなければ執政官たちを介して統治するかなのだが、後者の場合のほうが彼らの拠って立つ所はより虚弱になり、より危険を孕んでしまうから。なぜならば、彼らは執政官に選ばれた市民たちの意志に全面的に左右されてしまうし、とりわけ不穏な時期にあっては、極めて容易に君主からその拠って立つ所を奪うことができたり、あるいはこれを見棄てたり、あるいはまた君主に逆らったりするから。そして君主が危機に瀕して絶対的な権力を揮おうとしてもその時には間に合わない。なぜならば、執政官たちの命令に服することに馴れてきた市民や家臣たちは、そういう非常事態のなかでは、君主の命令に従わないからである。そして危機に陥った時期には、つねに、自分が信頼できる人材の不足を思い知らされるであろう。なぜならば、このような類の君主は、市民たちが政権を必要とする、平穏な時期に見馴れたものの上に、基礎が築かれ得ると思ってはならないのだから。なぜならば、その時には誰もが馳せ参じ、誰もが誓いを立て、命の危険が遠いあいだは、一人ひとりが彼のために命を投げ出すと口にするから。しかし政権が市民たちを必要とする、不穏な時期になれば、その時にはほとんど人材は見出せない。そしてこの経験が危険なものであればあるほど、一度しかこれは実践できない。それゆえ、賢明な君主は、いついかなる状況のなかでも、自分の市民たちが政権と彼のことを必要とするための方法を、考えておかねばならない。そうすれば、つねに、彼に対して彼らは忠実でありつづけるであろう。