ジル・ドゥルーズ『記号と事件』より

記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出・現代の名著)

記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出・現代の名著)

「芸術作品としての生」から。

芸術作品としての生をもたらす「任意の規則」が前面に出て、それが生存の様態や生の様式を構成するような、倫理と美学の双方にまたがる規則となるのです(そこには自殺も含まれる)。これは、ニーチェ力への意志の審美的行使、あるいは新たなる「生の可能性」の発明という名のもとに見出したものと同じです。あらゆる面の理由から、主体への回帰という言い方は避けねばなりません。主体化のプロセスは時代によって大きく変化するし、主体化のプロセスを支配する規則にもさまざまのタイプがあるからです。主体化が行われるごとに、権力が主体化のプロセスを回収し、力の関係に服従させようとつとめたとしても、主体化のプロセス自体は常に息をふきかえし、かぎりなく新たな様態を産みつづけるわけだから、このプロセスはなおさら可変的なものになるのです。したがって古代ギリシアへの回帰もないことになる。主体から内面と同一性をひとつ残らず除去するのでもないかぎり、主体化のプロセス、つまり生存の様態を生産する操作と、主体そのものは混同されようがないのです。主体化は「人称」ともいっさい関係をもたない。主体化とは、個人にも集団にもかかわるし、(一日のうちのある時間、大河の流れ、そよぐ風、生命といった)〈事件〉を性格づけることもある個体化なのです。それは強度の様態であって人称的主体ではない。それなくしては知を超えることも、権力に抵抗することもできないような特殊性の次元。