酒見賢一『墨攻』より

墨攻 (新潮文庫)

墨攻 (新潮文庫)

p.143-

 秦の始皇帝が中国を統一した後、墨子集団は跡形もなく歴史上から消えてしまった。戦国の二百年にわたって中国に勢力を張りつづけた組織が蒸発するように消えてしまうなどとは有り得ることではない。始皇帝儒者の弾圧は行ったが、墨者の弾圧は行わなかった。始皇帝が墨者を滅ぼしたのでもない。というよりもその頃にはすでに墨子の教団は消えてなくなっていたから弾圧の必要もなかった。弾圧されたはずの儒者は生き残り、後の中国の正統思想を担ってゆく。そこには墨者は影も形もない。
 墨者の一部は秦と結び付き、秦墨と呼ばれた。彼らは勢力拡大中の秦の為にその恐るべき能力を使用した。秦の爆発的な発展の裏には墨者の軍事能力が大きく寄与していた形跡が認められるのである。一方、一部の墨者は禽滑[リ]、孟勝のあり方を墨守して、大国の侵略を防ぐために死力を奮った。それら民衆と結びつき、レジスタンス化した墨者の壮絶な滅亡の様子を描いたと思われる記述もある。どちらの墨者も消えてなくなった。漢の時代になると、もはや墨子の名を語る者もいなくなった。そのテキスト「墨子」も明清の再評価の光があたるまで闇のなかに隠れてしまった。戦国に異能をもって強盛を誇った彼らがどうして突然に消えてしまったかは、今となっては謎である。
 中国という国は、あるいは民族は古来からいかなる思想が入ってきても、それを排斥することなく消化してきた。そういう強靱な胃袋をもってしても墨子の思想だけは消化できなかったようである。墨子の思想はそれほど中国にとって異物だったのであろうか。
 あるいは消化したのかもしれない。秦の始皇帝が用いた思想は法家のものであった。しかし、具体的な組織のモデルとしては墨子教団があり、それを容れたとも言える。墨者は秦を飲み込めなかったが、秦が墨者を飲み込んでしまったという推測が成り立つ。
 また墨者が好んだ「任」の一字は姿を変えて、太平道五斗米道などの民衆運動になった。中国の宗教結社の始源は墨子教団であったかもしれない。弱きを助けて強きを挫く、己を捨てて他人のために尽くし、死すとも節を曲げないという「任」の精神は「水滸伝」や「三国志演義」の中に生き続け、民衆に好まれた。