ジョルジュ・バタイユ『宗教の理論』より

宗教の理論 (ちくま学芸文庫)

宗教の理論 (ちくま学芸文庫)

「第二部 理性の限界内における宗教(軍事秩序から産業発展へ)」中、「1 軍事秩序」から。

 1 資源とその消費の均衡が崩れて、成長を目ざした諸力の蓄積へと移行すること
 人間を供犠に捧げる行為は一方で富の超過が存在することを証明すると同時に、他方でその富を蕩尽するべくきわめて骨の折れる様式が存在したことも証明している。総体としてみると人身御供は結局、かなりな程度安定していた新しい体制を、つまりそこにおいては成長の度合は弱いものであり、濫費=蕩尽[de'pense]は資源に見合って均衡が保たれていた体制を、非難し、断罪することになるのである。
 軍事秩序は、消尽が大饗宴[オルギア]さながらに頻繁に繰り返される情況に応じていたあの漠然たる不安感や不満の感情に終止符を打った。それは諸力を合理的に用いるよう命じ、そうすることで権力の絶え間ない増大を計ったのである。征服という方法的な精神は、供犠の精神とは正反対なものであり、そもそも初めから軍事社会の王たちは供犠に捧げられるのを拒むのである。軍事秩序の原則は、暴力性を方法的なやり方で外部へと方向転換することである。もし暴力性が内部で猛威をふるっているとすると、軍事秩序は可能な限りそれに対立しようとする。そして暴力の方法を外へとずらしながら、ある現実的な目標へとそれを服従させる。このようにして軍事秩序は一般的に暴力を服従させるのである。だから軍事秩序は派手に人目をひく戦闘の諸形態とは、つまりそういう戦闘は有効性を合理的に計算することよりも狂熱の堰を切ったような爆発によりよく応じているのだけれども、そのような戦闘形態とは正反対のものなのである。軍事秩序はもはや、かつて原始的な社会体制が戦闘や祝祭においてそうしたように、諸力の最も大きな濫費を狙うことはない。諸力を蕩尽する活動は残っているけれども、ある効率的生産の原則に最大限に服従しているのである。力が濫費されるとしても、それはもっと大きな力を獲得する目的でそうされるのである。原始的な社会は、戦争においても、奴隷を掠奪することに限定していた。そしてその社会の原則に応じて、こうした獲得物を祭礼において虐殺することでその埋め合わせをしていたのである。ところが軍事秩序は戦争から得た収益を奴隷へと編成し、奴隷という収益を労働へと編成する。征服という活動をある方法的な操作、つまり帝国の拡大を目ざした操作とするのである。
 2 帝国が普遍的事物として定置されること
 帝国はそもそも初めから現実秩序の優位に服従している。それは本質的にそれ自身を、一個の事物として定置する。自らが肯定し、断言する諸々の目標に、帝国はそれ自身服従するのであり、だから帝国とは理性による管理体制なのである。帝国はその国境に、ある他の帝国が同等のものとして存在するのを認めることはできないであろう。その周囲に現存している全てのものと、その帝国がとり結ぶ関係は、どのように征服するかという企図の中で秩序づけられている。こうして帝国は、狭隘な共同体という単純な、個性的な性格を失うことになる。通常の意味では、事物たちは自分たちが属している秩序のうちに挿入されると言うことができるが、帝国はもはやそういう意味合いにおいては一個の事物ではない。それは事物たちの秩序それ自体であり、一つの普遍的な事物なのである。この段階においては、もしその事物が至高な性格を持つことができないとすれば、ましてや従属した性格も持つことはできない。なぜならその事物とは、原則的に言って、一つの操作がその諸々の可能性の極限まで発展させられたものであるから。ぎりぎりの限界においては、それはもはや一つの事物ではない。という意味は、それが自己自身の内に、自らの侵しがたい性格を超えた彼方に、ある一つの開きを含んでいるという意味、つまりあらゆる可能事へと向いた一つの開口部を内包しているという意味においてそうなのである。しかしながらその開口部は、それの内で一個の空虚でしかない。それが単に事物であるのは、自らが無際限に服従するのは不可能であるということを示しつつ、自ら解体するときにそうなのである。ただしそれは自分自身で、至高な仕方で自己を蕩尽することはできない。なぜなら本質的にはそれはあい変らず一つの事物なのであって、消尽へと促す運動は、外部からそれにやって来るしかないからである。
 3 法とモラル
 帝国は普遍的な事物であり(その普遍性は空虚を露呈しているが)、その本質は暴力を外部へと方向転換することであるけれども、まさにちょうどそうである度合に応じて帝国は、必然的に法を発展させることになる。その法は事物たちの秩序の安定を保証するのである。実際、法はそれに加えられた侵害に、外的な暴力による処罰を課す。
 法は、各々の事物(あるいは各々の個人−事物)が他のものたちとの間で義務として守らねばならぬ諸関係を規定しており、そして公的な権力による処罰という手段で、それらの義務関係が確かなものとなるよう保証している。ただしここでは法は、個人の内的な暴力による処罰という手段で、同じような諸関係を保証しているモラルの二重語〔同一語源から生じ、形態と意味の異なる語〕以外のなにものでもないのである。
 法とモラルはそのいずれもが等しく、各々の事物が他の事物たちと取り結ぶ関係の普遍的な必然性を定義しているという点において、それらの場を帝国の内に持っている。しかしモラルの力は、外的な暴力に基礎を置く体系に対しては無縁なものとしてとどまっている。この体系にモラルが触れるのは、ただ極限において、つまりそこでは法が全的に統合されるような極限においてのみである。そしてこの一方と他方との結び付きは、帝国から外部へと、また外部から帝国へとそこを経由して通過が行われる中間項をなしているのである。