市村弘正『「名づけ」の精神史』より

「名づけ」の精神史 増補 (平凡社ライブラリー)

「名づけ」の精神史 増補 (平凡社ライブラリー)

「精神の現在形」から。

 私たちを取りまく世界を、不可解な謎にみちたものとして受けとること。そして、支配的現実がその謎を、「解決」の名のもとに隠蔽し、あるいは解消しようとするならば、もう一つの「新しい謎」の創造をもってそれに相対することが、二十世紀的な精神的対応の一形態であった。それは、たとえばシェーンベルクカンディンスキーとの間で確認されていたように、「私たちの魂が−−謎を解決するのではなく、謎の暗号を判読する試み」としてであった。無調音楽と抽象絵画が、かれらが創り出した「新しい謎」にほかならない。それは文字通り既存のコードを拒否し、既成のパースペクティヴと対象性とを破棄する。二十世紀的「現実」に対する精神的努力は、このような暗号書法的態度を持ちつづけることであるだろう。
 そこには、あらかじめ望ましい視角が用意されてもいなければ、手順を踏むことによって接近可能となる構成も備わっていない。そういう視角や手順それ自体が拒否されて、「謎」は私たちの眼前に投げ出される。物事を、既製の体系的な理解や解釈を崩壊させる「媒介項なしの伝達の試み」(S・ヤロチニスキ)として、いわば非伝達的な伝達性をもって提出されるものとして受けとめることが、私たちの方法的態度となるだろう。そして、社会そのものが病んでいるなら、ほかならぬその社会によって「病い」とされている事態にこそ、私たちの眼を据えなければなるまい。すなわち、暗号判読の一つの方法は、間違いなく病理学的な考察にもとづくものであるだろう。
 このように考えているときに、偶々、渡辺哲夫氏の精神分裂病に関する研究記録、『知覚の呪縛』を読む機会を得た。一人の重篤分裂病者との十年におよぶ「禁止と交流」の経験にもとづいて、記録され考察されたその世界について、直接に何事かを語ることは私にはとても出来そうにない。それほどに分裂病者の世界は、その背理性と逆説性そして拒絶性において圧倒的なものであった。しかし同時に、そこに記録された世界は、あるいは私たちの種々の精神活動の極限を透かしてみせるものであり、あるいは私たちの精神形態が隠蔽している事態を一挙に明るみに出すものであって、つまり私をつかまえて考えこませずにおかないものであった。いいかえれば、その世界は私の前に一箇の「謎」として、圧倒的な非伝達性をもったそれとして提示されたのであった。そして渡辺氏によれば、分裂病とはけっして隠された秘密などではなく、むしろ問題のすべてが「露出」してしまっているにもかかわらず把握の困難な病態であるという。まさしく「謎」そのものであろう。

知覚の呪縛―病理学的考察 (ちくま学芸文庫)

知覚の呪縛―病理学的考察 (ちくま学芸文庫)