ロラン・バルト『テクストの快楽』より

テクストの快楽

テクストの快楽

テクストの舞台には、客席との間の柵がない。テクストのうしろに、能動的な者(作者)もいない。テクストの前に、受動的な者(読者)もいない。主体も、対象もない。テクストは文法的な態度を失わせる。それは、ある驚くべき著述家(アンゲルス・シレジウス)の語っている区別できない眼だ。《私が神を見ている眼は、神が私を見ている眼と同じである。》
[……]
「テクスト」の神秘主義というものがあるようだ。――しかし、すべての努力は、逆に、テクストの快楽を物質化すること、テクストを他のものと同じように快楽の対象にすることに注がれるべきである。つまり、あるいは、テクストを生活上の《快楽》(食事、庭、出逢い、声、一瞬、等々)に近づけ、われわれの官能の私的目録にテクストを加えるか、あるいは、テクストによって、悦楽の突破口を、極度の主体喪失の突破口を開き、その時、このテクストを、倒錯の最も純粋な瞬間に、隠密な場所に同化させるか、するのである。重要なことは、快楽の場を地ならしし、実践的生活と観想的生活という偽りの対立を廃することである。テクストの快楽とはまさにテクストの分割に対して向けられた復権要求なのである。なぜなら、テクストがその名の特殊性を通して語ることは、快楽の遍在性と悦楽のアトピーだからである。[……]
テクストの快楽とテクストの制度の間にどんな関係があり得るだろう。ほんの僅かな関係しかない。テクストの理論は悦楽を想定しているけれど、将来制度となる可能性はほとんどない。それが基礎づけるもの、厳密に実現するもの、仮定するものは、実践(作家の実践)であって、科学や方法や研究や教育法ではない。その原理からいって、この理論は理論家か実践家(書く人)しか生めず、専門家(批評家、研究者、教師、学生)は全然生めない。テクストの快楽の記述を妨げているのは、あらゆる制度的な研究の、宿命的にメタ言語的にならざるを得ない性格だけではない。われわれが、現在、真の生成の科学(それだけがわれわれの快楽を、道徳的な後見を添えずに引き取ってくれるだろう)を構想できないからでもある。《……われわれは、生成の、おそらく、絶対的な流れを知覚するほど精緻ではない。永続するものは、物事を常識的な平面に要約し、還元する、われわれの粗雑な器官によってのみ存在するのであって、実は、何物もこの形では存在しないのである。木は瞬間毎に新しいものである。われわれが形を肯定するのは、われわれが絶対的な運動の精緻さを捉えないからである》(ニーチェ)。
「テクスト」も、われわれの器官が粗雑なために、(仮の)名前が与えられる木であろう。われわれは、精緻さが欠けているから、科学的になるのであろう。