萱野稔人『国家とはなにか』より

『国家とはなにか』

『国家とはなにか』

「暴力の組織化」から。

 フーコーによれば、暴力と権力はつぎのように区別される。

じじつ、権力関係を定義するのは、行為の様態であり、それは他者たちに直接的・無媒介的にはたらきかけるのではなく、かれらの固有の行為にはたらきかけるのである。行為に対する行為、起こりうる、あるいは現実の諸行為に対する行為、未来または現在の諸行為に対する行為。〔これに対し:引用者〕暴力の関係は、身体や物にはたらきかける。それは強制し、屈服させ、打ちのめし、破壊する。それはあらゆる可能性を閉ざすのだ。それゆえ、暴力の関係のもとには、受動性の極しか残されていないのである。

 フーコーによれば、権力は人間の行為にはたらきかけるのに対し、暴力は人間の身体に直接はたらきかける。言いかえるなら、権力は他者に、ある行為をなすように、あるいはその行為のあり方を規定するように作用するのに対して、暴力は、相手の身体にそなわっている力能を物理的に上まわる力によって、その身体を特定の状態(監禁、苦痛、死……)に置くように作用する。いわば権力は他者の力を触発するのに対し、暴力はそれを物理的に押さえ込むのだ。したがって、暴力の関係には「受動性の極しか残されていない」が、権力の関係においては、行為者に多少なりとも「能動性」が残されている。
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 要するに、「暴力をつかうぞ」と脅すことによって服従させることと、暴力の行使そのものとは区別されなくてはならない。暴力を行使するぞという脅しによって服従させることは、フーコーの区別でいえば権力に分類される。というのも、服従においては、たとえそれが暴力への恐怖にもとづくものであろうと、実際に相手によって特定の行為がなされなくてはならないからだ(この場合「禁じられた行為をなさない」というのも行為の一形態に含まれる)。暴力による脅しは、恐怖というかたちで相手の行為を一定の仕方で触発する。フーコーは権力の行使を、「たがいに相手の可能的な行為領野を構造化する仕方」として定義している。つまり、暴力による脅しとは、「相手の可能的な行為領野を」恐怖によって「構造化する仕方」にほかならない。
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 重要なのは、暴力が権力によって加工され、組織化されるプロセスにどのように介入すべきかを思考することだ。手段としての暴力に対して別種の暴力を対置することがアポリアをもたらすからといって、そこに「非暴力」を素朴に対置することはできない。というのも、非暴力の実践が有効なものとなるためには、暴力の加工によって暴力そのものがすでに制御可能でコントロール可能なものになっていなくてはならないからだ。暴力の加工は、非暴力の実践に先だつ。非暴力を暴力よりも根源的で自明なものとみなすことはできない。非暴力の自明性そのものが、暴力の加工によってあたえられる効果であるからだ。
 権力をつうじた暴力の加工は、社会におけるファンダメンタルなはたらきを担っている。国家が出現するのは、そのはたらきをつうじてだ。国家暴力にどう対抗していくのかというベンヤミンの問いは、それがかかえるアポリアもふくめて、暴力の加工をめぐる思考のなかで引き継がれなくてはならない。非暴力の実践もこのなかでこそ可能性をもつ。暴力の加工をいかに〈加工〉していくのか。この問いこそが、暴力をめぐる政治の地平をくみたてるのである。