マックス・ウェーバー『職業としての学問』より

職業としての学問 (岩波文庫)

職業としての学問 (岩波文庫)

p.34-

たとえば、諸君はかのプラトンの『ポリテイア』第七巻のはじめにある不思議な比喩を想起されたい。そこには、洞窟のなかに鎖でつながれた人々のことが書かれている。かれらはかれらの前にある岩壁のほうを向いており、かれらの背後からは明かりが差し込んでいる。だが、かれらにはこの明かりをみることができない。そこで、かれらはただ前の壁に映るもろもろの影だけを相手とし、それらのあいだの関係を解明しようとして骨折っている。こうした状態は、かれらのひとりが自分の鎖を断ち切ることに成功するまで続く。かれは鎖を断ち切り、振り返ってそこに明かり−−太陽−−をみる。まばゆさに目がくらんでかれはそこらを手さぐりし、そしてかれがなにをみたかをどもりつつ物語る。ほかの連中は、かれが間違っているのだという。しかし、かれのほうはしだいにこの明かりを見詰めることをおぼえ、かくてここにかれの使命が生まれる。洞窟のなかへ戻ってほかの連中の目を明かりのほうへ向けてやること、それがかれの使命である。かれとは哲学者のことであり、太陽とは学問の真理のことである。この比喩は、学問のみが幻影ならぬ真の実在をとらえるものであることを教えている。
 しかるに、こんにちなんぴとが学問をこのように考えるであろうか。こんにち、とくに若い人たちの学問にたいする考え方は、もうとっくにこれとは逆のものになっている。すなわち、学問がこしらえあげる思想の世界は、人為的抽象からなる影の国であり、この人為的抽象は、そのひからびた手によって実生活の血や汁気をつかみとろうとするが、しかもついにこれをなしえない。ところが、この実生活のなかには、というのはつまりプラトンでいえばかの洞窟の壁に踊る影絵のなかには、真の実在が脈打っている。これ以外のものは、みなこれから派生したものか、そうでなければたんなる幻影にすぎない。このようにかれらは考える。では、こうした変化は、どのようにしておこったのであろうか。
 かの『ポリテイア』におけるプラトンの感激は、要するに、当時はじめて学問的認識一般に通用する重要な手段の意義を自覚したことにもとづいている。その手段とは、概念である。それの効果は、すでにソクラテスにおいて発見されていた。もとより、それを知っていたのはかればかりではない。インドにも、アリストテレスのそれに似た論理学の萌芽がみいだされるのである。だが、ここでいうその意義の自覚は、ソクラテスのばあいが最初であった。かれにおいてはじめていわば論理の万力によって人を押さえつける手段が明らかにされたのであり、ひとたびこれにつかまれると、なんぴともこれから脱出するためにはおのれの無智を承認するか、でなければそこに示された真理を唯一のものとして認めざるをえないのである。永遠の真理は、真理に盲目な人々の行動のように時とともに移ろい行くべきものではない。ソクラテスの弟子たちにとって、これは実に偉大な体験であった。そして、このことから、もし美だとか、善だとか、また勇気だとか、霊魂だとか、その他なんであれ、それについてただ正しい概念をみつけだしさえすれば、同時にそれの真の実在も把握しうると考えられたのである。しかも、このことは同時に、とくに公民としての生活において正しく振舞うにはどうすべきかを知り、かつ教えるための方法を示すものとして考えられた。というのは、あくまで公民としての立場で物を考えたギリシア人にとっては、すべてはこの問題に帰着したからである。かれらが学問に励んだ理由はここにあった。