マックス・ウェーバー『職業としての政治』より

職業としての政治 (岩波文庫)

職業としての政治 (岩波文庫)

p.93-

全能であると同時に慈悲深いと考えられる力が、どうしてこのような不当な苦難、罰せられざる不正、救いようのない愚鈍に満ちた非合理なこの世を創り得たのか。この疑問こそは神義論の最も古い問題である。この力には全能と慈悲のどちらかが欠けているか、それとも人生を支配するのはこれとは全然別の平衡の原理と応報の原理−−そのあるものは形而上学的に解釈でき、あるものは永遠に解釈できない−−なのか。この問題、つまり、この世の非合理性の経験が、すべての宗教発展の原動力であった。インドの「業」の教説・ペルシアの二元論・原罪説・予定説・隠れたる神も、すべてこの経験から出てきた。この世がデーモンに支配されていること。そして政治にタッチする人間、すなわち手段としての権力と暴力性とに関係をもった者は悪魔の力と契約を結ぶものであること。さらに善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、人間の行為にとって決して真実ではなく、しばしばその逆が真実であること。これらのことは古代のキリスト教でも非常によく知っていた。これが見抜けないような人間は、政治のイロハもわきまえない未熟児である。[……]
原罪によるこの世の堕落という前提に立てば、暴力行使を−−罪と、魂を危殆に陥れる異端者に対する匡正手段として−−倫理の中に位置づけることは比較的容易であった。−−しかし、純粋に心情倫理的で無差別的な山上の垂訓の要請と、その上に立った絶対的要請としての自然法とは、革命的な力をいつまでも持ち続け、社会的動揺の時代になるとほとんど例外なく、不可抗的な勢いで姿を現わして来た。とくにそれは徹底的平和主義の諸教派[ゼクテ]を生み出し、その中の一つはペンシルヴェニアで対外的暴力をもたぬ国づくりの実験をおこなった。−−がこの実験は独立戦争が起こった時、この戦争の理想をみずからも主張したクェーカーが、この理想のために武器をとって立つことができなかった、という意味では悲劇的な経過をたどった。−−これに反して普通のプロテスタンティズムは、国家を従って暴力という手段を、とりわけ正統的な権威国家を、神の創り給うた制度として無条件的に正当化した。ルッターは、個人を戦争に対する倫理的責任から解放してその責任を国家に負わせ、信仰以外の問題で国家に服従することは決して罪にならぬと説いた。カルヴィニズムになると再び信仰擁護としての暴力、従って宗教戦争が原理的に認められてきたが、この宗教戦争は、回教[イスラーム]では最初から本質的な要素であった。−−このように政治倫理の問題を提起したのは、何もルネッサンスの英雄崇拝から生まれた近代の無神論が最初ではない。その結果はまちまちであったが、すべての宗教がこの問題と格闘してきたし、それはこれまで述べてきたところからも当然のことであった。人間団体に、正当な暴力行使という特殊な手段が握られているという事実、これが政治に関するすべての倫理問題をまさに特殊ならしめた条件なのである。
 人は誰でも、目的が何であれ、一度この手段と結託するや−−政治家はすべてそうしている−−この手段特有の結果に引き渡されてしまう。信仰の闘士−−宗教上の闘士や革命の闘士−−の場合はとくにそうである。[……]
 およそ政治をおこなおうとする者、とくに職業としておこなおうとする者は、この倫理的パラドックスと、このパラドックスの下で自分自身がどうなるだろうかという問題に対する責任を、片時も忘れてはならない。繰り返して言うが、彼はすべての暴力の中に身を潜めている悪魔の力と関係を結ぶのである。[……]自分の魂の救済と他人の魂の救済を願う者は、これを政治という方法によって求めはしない。政治には、それとはまったく別の課題、つまり暴力によってのみ解決できるような課題がある。政治の守護神やデーモンは、愛の神、いや教会に表現されたキリスト教徒の神とも、いつ解決不可能な闘いとなって爆発するかも知れないような、そんな内的緊張の中で生きているのである。