マルセル・モース『贈与論』より

有地亨訳、勁草書房、1962/6

 北西部アメリカのポトラッチは、その契約形態そのものに関するすべてのものについて研究しつくされている。しかし、ダヴィレオンハルト・アダム(Le'onhard Adam)が行ってきたその研究を更に広いわく組の中に位置づける必要があるが、その中では、それらの研究は、われわれがいま論じている問題にたいして新たな発展をもたらすに相違いない。なぜならば、ポトラッチは法律上の現象以上のものであり、それはわれわれが『全体的』(totaux)と呼ぶことを提案した現象の一つにほかならないからである。それは宗教的、神話的で、しかもシャーマン的である。というのは、ポトラッチに参加する酋長はそこで、彼らの祖先や神−−酋長たちはこれらの祖先や神の名を帯び、その舞踏を行い、その霊魂に取っつかれているのである−−を代表し、その化身となっているからである。ポトラッチは経済的なものである。したがって、現に、ヨーロッパの通貨で計算される場合でさえも、その非常に大きい取引の価格、重要さ、原因、結果は評価されねばならない。また、ポトラッチは社会形態学上の現象でもある。諸々の部族、氏族、家族の集合、あるいは、種族の集合すらも、そこでははげしい焦慮と興奮を見せる。人々は兄弟のごとく親密に交わるが、同時に依然として他人にとどまっている。大規模の交易や間断のない競技では、相互に交際するが、また、対抗するのである。われわれは極端に多数に上る審美的現象には暫く触れないでおこう。最後に、法的立場からも、すでに契約の形態から引出されたもの、契約の人的要素と称しうべきもの、更に、契約当事者の法的地位−−氏族、家族、位階、婚礼に関して−−のうえに、つぎのことを付加しなければならない。契約の物的対象、すなわち、そこで交換される物は、その物自体を提供せしめ、かつ、返礼をなすことを強制する特殊な効力を有するということを。
[……]
 疑問の余地のない一連の諸事実は以下の通りである。
 これらの社会においても、価値観念が作用している。一般的に云えば、巨額の余剰価値が蓄積されるのである。それらはかなり巨額に達する浪費を伴う純粋の消費のために用いられることが多いが、射利的な性質は全然見られない。また、交換の対象物の中には、富の表象、すなわち、一種の貨幣も存在する。それにもかかわらず、この実り豊かな経済組織全般は宗教的要素で染めあげられている。すなわち、貨幣は依然として呪術的力を有し、氏族または個人に結ばれている。各種の経済的活動−−たとえば、市のごときもの−−は儀式と神話で充満されている。それらは儀式的、義務的、効験的性質をもっている。それは独自の儀礼と方式を持つのである。かかる見地からすれば、われわれは、デュルケームが経済価値の観念の宗教的起源について提起した問題に答えることが可能であろう。これらの諸事実はまた、不正確にも交換と称されているもの−−『物々交換』(troc)あるいは有用物の交換(permutatio)−−の形態と起源に関する多くの疑問にたいする回答を用意するものである。アリストテレスを踏襲するラテン系学者やその先見的な経済歴史学の見解では、これらの交換は分業の起源をなしている。これとは逆に、一切の種類のこれらの社会−−その大半はすでにあきらかにされたものであるが−−においては、物を循環させるのは効用以外の別のものである。氏族、年齢集団や一般的には性別集団−−彼らの間の接触から生ずる多様な関係のために−−は、恒常的な経済的興奮状態にあり、しかも、この興奮そのものには現実的なものはすこしも含まれていない。それはわれわれの売渡や買得よりもはるかに詩趣豊かなものである。
 しかしながら、われわれはこれまで到達した点よりも更に奥深く進むことができる。われわれはいままでに使用してきた主要概念を分解し、混淆して、再検討を加え、別の定義を下すこともできる。われわれが使用してきた贈物(pre'sent)、進物(cadeau)、贈与(don)という用語そのものがまったく正確であるわけではなく、他に適当な用語が見当たらなかったまでである。われわれが好んで対照さす法律上、経済上の諸概念、すなわち、自由と義務、気前よさ、鷹揚、浪費と倹約、利得、功利の諸概念は正確なものではなく、それらを再吟味するのが妥当である。われわれはこの問題について手引を与えるほかはない。