パスカル『パンセ』より

パンセ〈1〉 (中公クラシックス)

パンセ〈1〉 (中公クラシックス)

パンセ〈2〉 (中公クラシックス)

パンセ〈2〉 (中公クラシックス)

「第五章 正義と現象の理由」から。

    三三〇
 王たちの権力は、民衆の理性と愚かさとの上に基礎を置いている。そしてずっと多く愚かさの上にである。この世で最も偉大で重要なものが、弱さを基礎としている。そしてこの基礎は、驚くばかり確実である。なぜなら、それ以上のこと、すなわち民衆は弱いという以上のことはないからである。健全な理性の上に基礎を置いているものは、はなはだ基礎が危い。それは知恵の尊重などがそれである。
    三三一
 プラトンアリストテレスと言えば、長い学者服を着た人としか想像しない。彼らだって人並みの人間で、ほかの人たちと同様に、友だちと談笑していたのだ。そして彼らが『法律』や『政治学』の著作に興じたときには、遊び半分にやったのだ。それは、彼らの生活の最も哲学者らしくなく、最も真剣でない部分であった。最も哲学者らしい部分は、単純に静かに生きることであった。
 彼らが政治論を書いたのは、気違いの病院を規整するためのようなものであった。
 そして、彼らがいかにも重大なことのようにそれについて語ったのは、彼らの話し相手の気違いどもが、自分たちは王や皇帝であると思い込んでいるのを知っていたからである。彼らは、気違い連中の狂愚をできるだけ害の少ないものにおさえようとして、連中の諸原理のなかにはいりこんだのである。
    三三二
 圧制とは、自分の次元をこえて全般的に支配しようと欲するところに成り立つ。
 強いもの、美しいもの、賢いもの、敬虔なものは、それぞれ異なった部面を持ち、おのおの自分のところで君臨しているが、他のところには君臨していない。そして、時おり彼らはぶつかり、強いものと美しいものとか、愚かにもどちらが相手の主人になるかと戦う。なぜなら、彼らの支配権は、類を異にしているのだからである。彼らは互いに理解しない。そして彼らの誤りは、あらゆるところに君臨しようと欲することにある。何ものにも、そんなことはできない。力にだってできはしない。力は学者の王国では、何もできない。力は外的な行動においてしか主人ではない。
 圧制。
 圧制とは、他の道によらなければ得られないものを、ある一つの道によって得ようと欲することである。人は、異なった価値に対して、それぞれ異なったつとめを果たす。快さに対しては愛のつとめを、力に対しては恐れのつとめを、学問に対しては信頼のつとめを果たす。
 人はこれらのつとめを果たさなければならず、それを拒むのは不正で、他のものを要求するのも不正である。だから次のような議論は、まちがいであり圧制的である。
「私は美しい、だから人は私を恐れなければいけない。私は強い、だから人は私を愛さなければいけない。私は……」そしてまたこのように言うのも、まちがいであり圧制的である。「彼は強くない、だから私は尊敬しないだろう。彼には才能がない、だから私は恐れないだろう」