ポール・ヴィリリオ『戦争と映画』より

戦争と映画―知覚の兵站術 (平凡社ライブラリー)

戦争と映画―知覚の兵站術 (平凡社ライブラリー)

「軍事力は虚像に支配される」から。

 アイルランドバスクの地下組織の戦闘員、「直接行動[アクシオンディレクト]」や「赤い旅団」のメンバーなどがテロ行為、殺人、拷問を宣伝に利用し、いけにえとなる犠牲者の写真を餌として利用し、報道機関をおびき寄せようとする時、内戦行為は精神幻覚的なその根源に立ち戻り、かつて古代宗教やプリュタニス政治〔古代ギリシア部族政治〕が占有していた供犠と苦悶のめくるめく光景を現出させ、人々の眼を釘付けにする。テロリズムが巧妙にも教えるのは、戦争とは、自我喪失状態、麻薬、血、あるいは白兵戦において味方も敵も、犠牲者も死刑執行人もその区別を失ってしまう一体性のなかで、その偽りの光のもとに機能する一種の錯乱の徴候だということである。ここに認められるのは、もはや同性愛的欲望に根ざした白兵戦ではなく、敵対しながらも質を等しくする死の欲望の世界、生の権利を死の権利へと転換させる倒錯した世界であるといえる。ガンビエス将軍は次のように書き記す。「戦争では暗示と錯覚が強まる。心理的要因(衰弱あるいは高揚)の探究によって、戦闘は本来の外面的特徴を獲得するのである」。
 古代から、軍事組織は科学技術革命をつぎつぎに推進し、多岐にわたる問題を処理してきたし、戦争はただ単に偶然性の科学であることをやめる時代が来るのだが、それでも前科学的モデルと縁を切ったわけではなかった。
 戦争は、人の眼を欺く見せ物と切り離せない。こうした見せ物を作り出すこと自体が戦争の目的であるからだ。敵を倒すというのは、相手を捕らえるよりもむしろ相手を威圧することであり、死の手前にあって相手に死の恐怖を体験させることなのである。戦争の歴史をひもとけば、重要な転換点にはマキャヴェリからヴォーバン、フォン・モルトケチャーチルにいたるまで、そのことを想起させる軍人にはこと欠かない。「軍事力とは野蛮な力ではなく、精神的力にほかならない」。
 それゆえ演技行動を欠いた戦争などありえないし、心理的欺きに無縁な精密兵器もない。兵器とはただ単なる破壊装置であるばかりでなく、視覚の装置でもあるのだ。換言するならば、それは感覚器官や中枢神経組織のレヴェルで生じる化学的現象ないし神経学的現象によって存在があらわになる刺激装置であり、知覚対象への反応、その識別、あるいは他の物体との差異の認識などに影響を及ぼすものなのである。[……]
 第二次大戦の間に、初期の空中戦兵器からヒロシマの閃光にいたる過程で、作戦区域に代わり、戦場兵器の姿があらわになった。軍関係者の用いる戦場兵器というこの語は、たしかに時代遅れのものでありながら、あるひとつの状況を表現している。それは、戦争の歴史とは、まず何よりもその知覚の場の変貌の歴史にほかならないということである。言い方をかえれば、戦争とは「物質的」勝利(領土獲得、経済支配)を収めることよりも、知覚の場の「非物質性」を支配するところに成立しており、現代の戦争の担い手がこの知覚の場総体への侵入を図ろうとするようになると、ほんとうの戦争映画は必ずしも戦争やなんらかの戦闘場面を見せる必要がなくなる。なぜなら映画が不意打ち(技術面、心理面にわたる)をもたらすことが可能になった瞬間から、事実上それは兵器のカテゴリーに加えられることになったからである。