姜尚中『姜尚中の政治学入門』より

姜尚中の政治学入門 (集英社新書)

姜尚中の政治学入門 (集英社新書)

「あとがき」から。

 個人的な体験でいえば、イラク戦争のときのことが忘れられません。
 アメリカが戦争に突入する前、連日、テレビなどで繰り返し刷り込まれたのは、毒ガスなどで悶絶するクルド人の婦女子の映像でした。それが、ヒットラーばりのグロテスクな独裁者サダム・フセインの映像と鮮やかなコントラストをなして、イラクには大量破壊兵器があるに違いないという印象を、多くの人々に与えてしまったのです。「論より証拠」と言いますが、大量破壊兵器の存在を裏づける証拠がなく、しかもそれを目にする機会などありえないフツーの人々にとって、この映像は、いわば状況証拠のイメージを抱くきっかけともなりました。そうしたイメージの広がりを背景に、アメリカは先制攻撃に出たわけです。
 それにしても、大量破壊兵器は、あるのか、ないのか。
 この差し迫った二者択一の選択に誰もが困惑し、どう判断したらいいのか、迷ったに違いありません。確かに、あろうとなかろうと、先制攻撃を正当化する根拠などどこにもないという戦争反対論はありえます。しかし、「九・一一」の未曾有のテロ攻撃の後では、大量破壊兵器がある場合を想定すると、先制攻撃を否定する根拠として、今ひとつ説得力に欠ける憾みがありました。しかも、先の状況証拠のイメージがあったのだから、なおさらです。
 だが、私には、大量破壊兵器はないという第六感が働いていました。それは、私のなかに、まるで身体的な感覚のように広がっていたのです。
 そして、イラク大量破壊兵器の査察に従事したことのある元国連査察官のスコット・リッターの発言を聞き、私の第六感は、いよいよ確信に満ちていきました。
 「論より証拠」の「証拠」がなく、状況証拠と見まがうような映像を、それこそ何度も見せられている私たちにとって、いったい何が判断の根拠になると言えるでしょう。
 結局、第六感に頼るしかないのだと、私はそう決めていました。
 もっとも、第六感を頼りに、私とは反対の結論に達する場合もありえます。今もって、イラク戦争の非を認めようとしない小泉首相の場合がそれでしょう。確かに小泉氏は、その第六感からか、大量破壊兵器はあると断言したのです。
 このように第六感といっても、正反対の結論を導きだしてしまうことがあります。それでは、小泉氏の第六感と私のそれとは、どこがどう違うのでしょうか。
 一言で言えば、それは、歴史の時間に対する感覚の違いなのです。
 もし、イラク戦争を、冷戦終結以後の湾岸戦争の顛末から見直し、さらにはベトナム戦争と比べることができれば、もっとも新しい戦争の動機とその経過、そして結末が予想できたはずです。歴史の時間を、今という一点だけに凍結させて判断すれば、第六感は単なる直感的な思い込みにすぎなくなります。しかし、歴史の時間の幅を広くし、そして過去との「類比」を行う「思考実験」を試みてみれば、眼前のシーン(この場合はイラク戦争の新しい局面)は、違った意味を帯びてくるのです。
 このような「思考実験」が可能となるためには、いわば「生もの」だけを扱うメディア的な情報だけでは限界があります。喩えは悪いかもしれませんが、「干物」の知が必要なのです。「干物」であるから、確かに鮮度は落ちているし、メディア的にはほとんど価値はありません。しかも、それは、視角偏重の世界とは別物です。
 だが、迂遠であっても、そのような「干物」の知がなければ、じつは「生もの」情報のうち、どれが危険でどれがそうでないのか、その識別は不可能になってしまいます。しかも、「生もの」に当たれば、普通は食中毒を起こし、苦しみが全身に回るのに、アクチュアルな出来事の世界では、当たっていてもその感覚がなく、むしろ快適な場合だってありえるのです。[……]
 ここまで述べてきたことからわかるように、「百見は第六感にしかず」と言い切れるためには、政治学のような「干物」の知の裏づけがなければなりません。第六感を磨くためには、そうした「干物」の味を何度も噛みしめておくことが必要です。そうでなければ、第六感は、ただのひらめきにすぎません。
 このような意味で、政治学は、私がメディアのような「生もの」の世界で発言をし、時には不確かな現実に判断を下す場合の拠りどころになっているのです。この手間暇のかかる「干物」を自分の味にじっくりと熟成させてこなかったら、私は「生もの」の旨味に籠絡されて、当たっていることにすら気づかなかったかもしれません。
 ただ、逆に、もし「干物」の学問の世界だけに安住していたとしたら、私の第六感は鈍磨して、「生もの」のアクチュアリティを失っていたに違いないでしょう。もちろん、メディアのような「生もの」を扱う世界で発言をすることは、時にはリスクが伴います。
 それでも、そのリスクを冒し、どれが中毒しそうな「生もの」なのかをしっかりと峻別する作業がなければ、政治学は永久に「干物」の世界のペダントリー(衒学趣味)に終わってしまうはずです。政治にリスクがつきまとうように、政治学にもリスクはつきものであり、だからこそ、先に述べたような逆説の醍醐味が味わえるのかもしれません。