エルネスト・ラクラウ+シャンタル・ムフ『ポスト・マルクス主義と政治』より

ポスト・マルクス主義と政治―根源的民主主義のために

ポスト・マルクス主義と政治―根源的民主主義のために

「第3章 社会的なものの実定性を越えて−−敵対性とヘゲモニー」より。

これまでの議論において、私たちは「社会編成」を経験的な指示対象として、「ヘゲモニー的編成」を差異の接合された全体性として扱ってきた。それゆえに、「編成」(formation)という同一の用語が、ふたつのまったく異なった意味で使われている。そこから生じる曖昧さを、ここで除去するよう試みなければならない。より一般的なかたちでは、この問題はつぎのように定式化されよう。つまり、経験的に与えられる行為者たちの総体(社会編成の場合)、あるいは言説的諸契機の総体(ヘゲモニー的編成の場合)が、編成という観念が意味する全体性のなかに含まれるとすれば、それは、そうした全体性を通じて、編成にとって外的ななにものかとの関係で、両方の編成を区別することが可能だからなのである。かくして、なんらかの編成が、全体性として形づくられるのは、それ自体の限界を土台にしてのことなのである。ヘゲモニー的編成の場合、こうした制限の構築の問題を提起するさいには、ふたつのレヴェルを区別する必要がある。つまり、あらゆる「編成」の抽象的な可能性の条件というレヴェルと、ヘゲモニー論理がそこに導入する種別的な差異と関連したレヴェルである。相対的に安定した差異システムとしての、編成の内的空間から、議論を始めよう。差異の論理だけでは、限界の構築に十分ではないことは、明白である。というのは、この論理が専一的に支配するような場合には、それを越えるものは、他の諸差異でしかありえず、それらの規則性は、それらを編成そのものの一部に変形してしまうであろうからである。差異の場に留まるとは、どのような境界をも考えることを不可能にし、また、それゆえに、「編成」概念を解体するような、無限の場に留まることである。すなわち、差異システムの総体が、差異を越えるなにものかに関して、全体性として切りとられうる場合にのみ、限界は存在しうるのであり、このような切りとりを通じてのみ、全体性は編成としてみずからを構成するのである。既述したように、明らかにそのような差異を越えるものは、なにか実定的=積極的なもの−−新しい差異−−ではありえないのであるから、唯一可能であるのは、それがなにか否定的なものからなるということである。だが、社会的なものという場に否定性を導入するのが、等価性の論理であることを、私たちはすでに知っている。したがって、ある編成がみずからを表現しうるのは(つまり、みずからをみずからとして構成できるものは)、限界を境界に変形することによってのみであり、限界を越えたものをそれではないものとして構築するような、等価性の連鎖によってのみなのである。ひとつの編成がみずからを全体化の地平として構築しうるのは、否定性・分割・敵対性を通じてでしかない。
 しかしながら、等価性論理は、あらゆる編成のもっとも抽象的で一般的な存在条件にすぎない。ヘゲモニー的編成について語りうるためには、これまでの分析が提供している別個の条件を導きいれる必要がある。すなわち、社会的・政治的な諸空間の連続した再定義や、現代社会に特有な、社会分割を構築する諸限界の恒常的な置換過程である。こうした諸条件のもとにおいてのみ、等価性論理を通じて形づくられる全体性は、ヘゲモニー的性格を獲得する。しかし、このことにはさらに、つぎのような問題が含まれると思われる。すなわち、こうした不安定性が、社会的なものの内的な諸境界を安定させないために、編成という概念そのものが脅かされるのである。そして、まさしくそのことが生じている。あらゆる境界が消滅してしまうとしても、それは編成を認識することがより困難になったことを意味はしないのである。全体性は与件ではなく、構築物であるために、それを構成する等価性の連鎖が引きちぎれると、全体性は潜伏するより以上のことを行う。つまり、それは解体する。
 このことからして、「社会編成」という用語は、ある指示対象を指すために使われる場合、無意味になる。社会的行為者たちは、指示対象としては、いかなる編成も構成しない。例えば、「社会編成」ということばで、外見上は中立的な仕方で、ある特定の地域に住んでいる社会的行為者たちを指定しようとしても、その地域の限界について、問題がただちに提起される。そこでは、政治的な領域の規定が必要となる。つまり、行為者たちの単なる指示対象的な実体というレヴェルとは異なったレヴェルで構成される布置である。かくして、ふたつの選択が生じる。政治的な限界を、単なる外的な与件だと考えるか、さもなければ、行為者たちは、彼らを構成するさまざまな社会的編成に再統合されるか−−そうであるなら、社会編成は国境と合致する必要がなくなる−−なのである。前者の場合、「フランス的社会編成」とか「イギリス的社会編成」といったことばは、単に「フランス」や「イギリス」を示すものでしかなくなり、「編成」という用語は、明らかに余計である。さもないと、行為者は、彼らを構成するさまざまな編成に再統合されるのであり、その場合には、社会編成が国境と合致すべきだとする理由はなくなってしまう。ある種の節合的実践は、社会編成を、編成そのものの限界と合致させうる。だが、いずれにしても、ある特定の空間を形作り、同時にそのなかで活動もする多数のヘゲモニー的節合に依拠するであろうような、開かれた過程が実在するのである。