矢代梓『年表で読む二十世紀思想史』より

年表で読む二十世紀思想史 (講談社学術文庫)

年表で読む二十世紀思想史 (講談社学術文庫)

「1979 昭和五十四年」。

 ジャン=フランソワ・リオタール、『ポスト・モダンの条件−−知・社会・言語ゲーム』を刊行。ポスト・モダニズム思想の招来を告知した象徴的な書物。ここで語られる「ポスト・モダンの知」とは、何よりも「ポスト産業社会」の知である。当然、D・ベルの『イデオロギーの終焉』論からの思想的系譜が問題になってしかるべきところだったが、リオタールはごくナイーヴに先端科学や先端技術の最前線の変化について言及してしまっている。そして、「近代の知」という物語の根底的な危機について語ろうとする。こうした、やや切迫した議論の進め方の行間を読み取るためには、リオタールの当時の状況について考えてみる必要がある。この報告は、カナダのケベック州の大学協議会からの委嘱を受けて提出されたものだ。「序」の末尾に印象的な言葉がある。「我々はこの報告をそのまま、パリ第八大学(ヴァンセンヌ)の哲学総合研究科へと捧げよう。我々はそこで、この大学が消え失せようとし、この研究科が生まれようとする極めてポスト・モダンな時を迎えているのである」。ヴァンセンヌのパリ第八大学は五月革命の精神を反映してつくられた大学だったことに注意しておこう。この大学が一九八〇年のヴァカンスに取り壊されて、パリ北部のサン・ドニへ移った。フランス文教当局の暴挙は、まさしく五月革命の精神を踏みにじるものだった。リオタールの言説には、こうした学校当局の新保守主義への回帰に対する複雑な思いがあった。日本の軽薄な思想ジャーナリズムは、ほとんど、このことに気がつかなかった。あるいは、知っていても意識的に無視しようとした。一九八〇年代のポスト・モダニズム論とディコンストラクションの極めてバブル的な導入には、この書物が「ヴァンセンヌへの追悼の書」であってはならなかったからだ。しかし、何物も生みださなかった今日の「思想の廃墟」に直面して、もう一度、『ポスト・モダンの条件』を読み返すことが必要かもしれない。
 この翌年、ユルゲン・ハーバーマスはフランクフルト市からアドルノ賞を受けた際、「近代[モデルネ]−−未完のプロジェクト」と題する講演を行なった。これは明らかにリオタールを意識して行なわれたものだったが、ハーバーマスの主眼はポスト・モダン的知の新保守主義性に向けられていた。そのことも、日本ではさほど重要視されなかった。今にしてはっきりいえることだが、「虚構の大国」を目指すためには、「近代」を封殺して、「脱近代」の衣装に着替えた方が得策だったからだ。ハーバーマスを「近代主義ドン・キホーテ」と揶揄していた声が、なつかしく思い出される。
 ジェイムズ・E・ラヴロック、『地球生命圏』を刊行。一九六〇年代初頭、NASAの火星探査計画に関わったラヴロックは、宇宙から青い地球の輝きを見た感動を「ガイア仮説」として結晶化させた。「この地球の全生命圏、すべての生き物は、大気や海、土壌となって、生命を存続させるための巨大なシステムを形成している」という壮大な仮説は、エコロジー環境保護の運動に計り知れないほどの影響を与えた。地球の資源が有限であり、人類の文明がガイアの自己調節機能そのものを破壊しつつあるのではないかという危機感が、この書物の出現とともに、本当に真剣に討議されるようになった。