デイヴィド・ヒューム『人性論』「解説」より

デイヴィド・ヒューム 人性論〈4〉―第3篇 道徳に就いて (岩波文庫)

デイヴィド・ヒューム 人性論〈4〉―第3篇 道徳に就いて (岩波文庫)

大槻春彦「解説」から。

 ヒューム哲学は人間学(science of man)である。人間学は精神を有する存在者としての人間を研究する学であり、簡単に言って人性の哲学(philosophy of human nature)である。この人性の哲学がヒュームにとっては哲学の全体である。ヒュームのころには、哲学はまだ科学と分離していなかった。哲学はすなわち学であった。そして哲学は、そのかかわる世界として自然と人間と形而上学的な世界とを見出していた。最後の領域はしばしば神の世界と一致する。ヒュームは、これらの世界のうち、人間を中心とし、人間を基礎におく。自然も神も人間を離れては学的に探究することができない。そのかぎりでは、人性の哲学は最も広い意味でとりも直さず哲学であり、そしてそれは学の全体であった。
 しかし、人性の哲学は狭い意味では一そう端的に人性にかかわる。人間精神の諸現象・諸表現にたずさわる。その意味では、人性の哲学は精神学(moral philosophy)である。精神学は、自然学が自然世界を探究する学であるのに対して、精神を具えた存在としての人間の諸活動・諸事象を探る学である。人間精神の活動する領域はさまざまで、その主なものは道徳・政治・文芸・宗教である。従って、道徳に就いての道徳学、経済法律その他社会的諸現象を含めた政治学、並びに文芸批評、及び成立宗教に囚われない自然宗教、それらが精神学の特殊部門として成り立つ。
 が更に、人性の哲学は最も狭い意味に於て人性そのものの探求にたずさわる。人間精神に通ずる諸相・諸機能・諸原理をたずねる。そのとき、原理学としての人性の哲学、人性の究極的真態を極める根元の学としての人間学、そうした意味での勝義の哲学が人性に就いて考えられる。このような人性学が諸学の基礎である。そしてそのたずさわるところは、人間精神のはたらく二つの大きな領域である知性と情緒である。前者の考察は、知性と情緒とを対象とする。このさい、心理学が一つの学として名前を挙げられていないのは、この学がまだ独立していなかったからであるし、また、狭義の人性学は人間精神の学として、或る意味でその全部が心理学だからである。
 このようなのが[『人生論』の]「序論」の前半に窺われるヒュームの考想である。これで見れば、ヒュームは、最も狭い意味の人生学を根底に置く諸学の統一的な体系を構想して、基礎部門の探求から漸次に他の部門へ及ぶ遠大な計画を、少くとも原理的にはもっていたのである。[……]不幸にしてこの遠大な計画は道徳学だけで挫折した。しかし精神学の諸部門は、文芸批評に関して最も貧弱ではあるが、いろいろな論想(essay)でだんだんに実現された。神に関しても、人間の信仰の問題として精神学的見地から論究され、はじめは独立な部門と考えられなかった歴史にも探求の手は延びた。数学もまた、人間精神の知的活動の所産としてその確実性の程度と根拠とが吟味された。ただ、自然学だけが、むしろ模倣さるべき典型として、他の哲学者に於ける数学のような位置を占めた。
 かようにヒュームの学の体系は独自なものである。が、人性の諸原理の探求を諸学の基礎におくことは、ロックから学んだに違いない。ヒューム自身はロックとならべてシャフツベリ、マンドヴィルその他を挙げる。たしかに、人性が理知にのみ尽きるものではなく、複雑多彩な陰影多いものであることを知らせたのは、後者の人々であったろう。ロックはまた、人性探求の方法も教えた。が、ここでもヒュームはロック以上に他から学んだ。それはすなわちニュートンであった。そして人性学の方法論の検討が「序論」の後半部を占めることになる。
 人性研究の唯一の方法は経験と観察との実験的方法であり、これによって基本的な少数の原理を見出して、人性の諸現象を統一的に解明することができる。このような方法を成功的に実現した学はニュートン的自然学で、ヒュームにとってこの学は、現実の事実に関する学としてその名にふさわしい唯一のものである。けだし人間が自己の力の範囲と限度とを心得て、経験的事実を超える不逞な野望を抱かないからである。人性の諸活動・諸現象の事実を闡明する人性学は、ニュートン自然学が既にその範を示している実験的方法を厳密に守らなければならない。もっとも、精神現象の実験的探求は自然学の場合より困難である。けだし、観察の対象となる精神現象がそうなることによって変化するからである。ヒュームは、単純な内観の困難を知って、人性の諸事象の広汎な客観的観察を提唱する。更に進んでは、動物の精神との比較心理学的考察も行う。しかし彼は、ロック的な内観を全く棄ててもいなく、意識心理的立場を脱しないところがある。殊に、知性や情緒の基礎的部門に於てそうである。