上野成利『暴力』より

暴力 (思考のフロンティア)

暴力 (思考のフロンティア)

p.115-

 たとえばデリダのみるところ、ハーバーマス流の「寛容」は「条件付きの歓待」にすぎないが、しかしそれでも「歓待」という不可能な理念を置くからこそ「寛容」の限界も明らかになる。そのうえでこの「条件付きの歓待」の、その「条件」のレヴェルを問いただしてゆくことが、現実の政治に課されているというほかないだろう。さらにこうした不可能な理念ということでいえば、ベンヤミンのいう「神的暴力」などその最たるものというべきかもしれない。これを現実の世界で無理やり目に見えるようにしようとすれば、それこそ二乗した虚数のように負の属性を帯びたものとして現われざるをえない。ベンヤミン自身、ある断章で次のように記している。

真の神的暴力が破壊的ではないかたちで顕現することができるのは、来るべき(成就された)世界においてしかない。これにたいして、神的暴力が現世世界のなかに入り込んでくる場合には、そこには破壊がみなぎることになる。したがってこの世界においては、いかなる恒常的なものも、またいかなる形成も、神的暴力を根拠に据えることはできない。ましてや、神的暴力を根拠にして、支配をこの世界の最高原理として打ち立てることはできない。(「神と歴史」1919-20年)

 こうしてみると、「神的暴力」による「神話的暴力」の根絶というベンヤミンの見通しも、そのまま現実世界で実現しうると考えるのにはやはり無理がある。むしろ現実世界で私たちがとりうる方途としてここで注目したいのは、ベンヤミンのいう「純粋な手段の政治」、とりわけ「話しあい」の可能性である。もとよりこの「話しあい」は対等な主体どうしの透明なコミュニケーションなどではありえない。「話しあい」において「嘘」は処罰されないとベンヤミンが述べているのも、それがまさに折衝交渉[ネゴシエーション]の技術であることを端的に物語っている。これは<正しい手段が目的を正当化する>という合法性の論理にも<正しい目的が手段を正当化する>という正義の論理にもけっして回収されない、いわば法の手前でなされる純粋な技術の謂いなのである。非対称的な対立関係のなかで生じる齟齬や軋轢を正面から受け止めつつ、ときに相手のほうへと自分を寄り添わせながら、「紛争の非暴力的な調停」の可能性を探ってゆくこと、これがベンヤミンのいう「話しあい」の内実であろう。
 これはおそらく「闘技」と重なり合う思考でもある。たとえベンヤミン自身が「神的暴力」の直接的な顕現を希求していたとしても、「神話的暴力」からの解放を望見しながら綱渡りの「話しあい」を不断に試みる「純粋な手段の政治」自体は、一種の「闘技」と呼んでいいだろう。ホルクハイマーとアドルノが敵対関係に内在した宥和を望見する場合でも、そこで想定される「宥和」のイメージというのは、最終ゴールに到達しない不断の交渉とミメーシス的な相互変容の過程そのものだったといえる。いずれにせよ「最終解決」が最大の悪であるという認識こそ20世紀の経験が私たちに残した最大の教訓だったとすれば、「最終解決」だけは避けねばならないという当為が私たちの時代の「最小限の道徳[ミニマ・モラリア]」となる。「アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮である」と呟くだけでは、むろん無力であるにはちがいない。「最小限の道徳」はしかし、「純粋な手段の政治」を携えることで暴力批判の最大限の武器へと転化する。不可能な理念をけっして手放すことなく、たとえば「条件付きの歓待」の、その「条件」の妥当性を不断に問いただしてゆくこと−−これこそ相互敵対的な空間を生き抜くうえで必要な技術であり、私たちの時代の暴力批判論に課された条件なのではないだろうか。