クレア・コールブルック『ジル・ドゥルーズ』より

ジル・ドゥルーズ (シリーズ現代思想ガイドブック)

ジル・ドゥルーズ (シリーズ現代思想ガイドブック)

「なぜドゥルーズか?」より。

ドゥルーズの仕事は、構造主義精神分析に対する創造的な応答としてのみならず、現象学のラディカル化としても見ることができる。エドムント・フッサールおよびマルティン・ハイデガーが説いていたのは、我々はあまりにたやすく人間的生のなんたるかについての諸前提を受け入れてしまっているということであった。そこで彼らは次のように主張した。本当に思考するためには、生を既に規定され固定された何らかの視点から(たとえば知とその担い手である「主体」という観点から)規定するのではなくて、生が時間および生成変化の流れの中に現れるがままにそれを見ていくことが必要である、と。我々は、ダイナミックな経験の流れを、あらかじめ与えられた既成の概念によって規定されたものとしてではなく、時間を通じて生成変化するものとして取り扱う必要がある。それ故に、現象学は現象すなわち現れへの留意であるのだ。思考さるべきものに関するこのような刷新を、ドゥルーズは、シミュラークルという自らの概念によって変形し、ラディカル化した。現象とは、何らかの世界の現れである。対し、シミュラークルは現れそのものであって、その「背後」にいかなる起源も基礎ももたない。ドゥルーズプラトンにまで遡って幅広い範囲の哲学者を用いているが、生成変化および「シミュラークル」に関する彼の企図は、概ね、現象学に対するラディカルな批判として見てよい。現象学が強調したのは、世界を、変動するその現れにおいて見る必要があるということ、そして、固定された概念や論理で見てはならないということであった。ドゥルーズの天才は、この現れという概念(イメージないしは「シミュラークル」)を、一般にこの概念の哲学上の故郷とされているところを超えたところで捉えたところにある。ドゥルーズが強調したのは、我々がもし本当に判断も前提もない世界の現れを受け入れたいのであれば、何らかの世界の現れとしての現れを対象としてはならないということである。うじゃうじゃとした現れの「群れ」以外の何物も存在しないし、経験する心ないし主体の基礎など存在しない。シミュラークルとはいかなる基盤も基礎ももたない現れないしイメージである。ドゥルーズはあらゆる生、人間の心に留まらないあらゆる生がどのようにしてイメージを通じて自己を創造し、表現しているのかを見ているのである。ごく微細な有機体であろうと、シミュレーションという出来事、あるいは複数の現れの相互作用なのだ。光合成を通じて生成変化する細胞は光を何物かのイメージとして「知覚」するのではない。細胞と光のあいだのこの関係は、根源的な基盤とか、より「実在的」な基盤などをまったく有しない複数の現れの相互作用である。ドゥルーズは、機械やカメラのもたらす非人間的な現れないし知覚についても考察していた。実のところ、ドゥルーズの思考にとって最も重要な出来事の一つは、近代における映画の到来であった。そこではイメージが人間の眼から、そして、物事を有機的に組織してしまう遠近法や物語から自由になった。全く新しい思考方法を我々に与えてくれるのは、非人間的で多様なやり方で物事を「見る」映画の力に他ならない、と彼は論じている。