吉本隆明『カール・マルクス』より

カール・マルクス (光文社文庫)

カール・マルクス (光文社文庫)

マルクス紀行」より。

 書物は、読むたびにあたらしく問いかけるものをもっている。いや、たえずあたらしく問いかけてくるものをさして書物と呼ぶといってもおなじだ。書物がむこうがわに固定しているものに、読むものが、書物にたいして成熟し、流動していくからである。書物のがわからするこの問いかけが、こういう流動にたえてなおその世界にひきずりこむ力をもち、ある逃れられないつよさをもって、読むものを束縛するとき、わたしたちは、その書物を古典と呼んでいいであろう。
 一般に古典的な著作とよばれているものは、こちらがわの動きや深さによって、本来、同じ文字がならべられているだけなのに、なお動きや深さの変化としてあらわれるものをさしている。古典的な著作のがわのこの動きや深さは、ある普遍性と個性とに、また、べつの言葉でいえば歴史性と現存性のかたい核につきあたるように感じられる。このような書物に遭遇したという感じを、わたしは、あまりたくさんもっていない。それは幸か不幸かはしらないが、わたしたちの時代は、それほど現実そのものがせわしない時代なのだ。
[……]
 いま、おそらくわたしは敗戦の数年後よりも、はるかによくマルクスの思想を理解している。それとともに、かつて及びがたしとかんがえたマルクスは、いま、あるゆとりの像のなかで、おなじように及びがたしという意識となってあらわれてくる。ひとは、あるいは、書物を、とくにマルクスの著作を、個人対個人の契機でよむのは不当だというかもしれないが、それはかれのほうが間違っているのだ。絵画とか映画とかとちがって、書物(文字でかかれたもの)ほど、個人対個人の契機を要求するものはないのである。たとえ、科学的著作であっても、そこから個人対個人の要求をはずしては、真に読みえないものなのだ。