プルースト『失われた時を求めて』より

抄訳版 失われた時を求めて 1 (集英社文庫)

抄訳版 失われた時を求めて 1 (集英社文庫)

抄訳版 失われた時を求めて 2 (集英社文庫)

抄訳版 失われた時を求めて 2 (集英社文庫)

抄訳版 失われた時を求めて 3 (集英社文庫)

抄訳版 失われた時を求めて 3 (集英社文庫)

彼は、ピアノの思い出そのものが、音楽にかんするものの見方をゆがめていることも、また、音楽家に対して開かれている領域は、あのけちくさい七つの音の鍵盤ではなくて、まだほとんど何も知られていない無限の鍵盤であることも分かっていた。その鍵盤ではわずかにあちこちに、鍵盤を構成する愛情、情熱、勇気、平静といった幾百万のキーのうちのいくつかが、未踏の厚い闇によってたがいに隔てられており、その各々は、一つの宇宙が他の宇宙と異なるように他のキーと異なっている。それらのキーを発見したのは何人かの偉大な作曲家たちで、彼らは自分たちの見出したテーマに対応するものを私たちのうちに目ざめさせながら、こちらの知らぬうちに、私たちが空虚であり虚無であると見なしている自分の魂の、かつて足を踏み入れたことのない絶望的な大いなる夜が、どんな富、どんな変化を隠しているかを示してくれるのである。ヴァントゥイユはこのような作曲家の一人であった。彼の小楽節は理性にはあいまいな面を見せているとはいえ、非常に充実した明白な内容がそこに感ぜられ、その内容に対して小楽節はたいそう新しく独創的な力を与えているので、これを聴いた人びとは心のなかに、知性のイデーと同列に並べてこの小楽節をとっておくのだった。スワンはまるで愛と幸福の概念のようにこれを思い返したが、『クレーヴの奥方』や『ルネ』といった題名が記憶に浮かんだときと同様に、その概念がどういう点で特別なのか、彼にはすぐ分かるのであった。たとえ小楽節のことを考えていないときでも、小楽節は潜在的にスワンの精神のなかに存在しつづけていた−−あたかも等価物を持たないほかのある種の概念、私たちの内的領域を多様に飾る豊かな富である光、音、起伏、肉体的官能などの概念と同様に。おそらくそんな概念も、私たちが虚無に帰してしまえば失われ、消えてしまうだろう。けれど、私たちが生きているかぎり、ちょうど実在するなにかの物体を知らないことにするわけにいかないように、またたとえばランプの光に照らしだされて部屋のなかの物が変貌し、暗闇の思い出までもが部屋から追い出されてしまったのに、その光を疑うなどということはできないように、私たちはそれらの概念を知らなかったことにするわけにはいかないのだ。