『コルトレーンの生涯』より

コルトレーンの生涯―モダンジャズ・伝説の巨人 (学研M文庫)

コルトレーンの生涯―モダンジャズ・伝説の巨人 (学研M文庫)

 ブルースが奴隷制度の中から始まったのはいうまでもないことである。
 ワーク・ソングは、ある意味でアメリカのカリプソだ。黒人の奴隷たちを一日十時間から十二時間もぶっ通しに働かせるのに必要なものでさえあれば、白人の農場主にしてみれば何でもよかったわけである。一方、黒人の側からすると、彼らが遺産として受けついだ応答形式による一番基本的な歌を歌いながら、自分たちの"憂鬱[ブルース]"の公認の吐け口として"意味のある"内容を歌の中にこっそりと入れることができたのである。叫び声やわめき声、そして嘆き悲しむ声、さらにゆりかごに寝かされた赤児に小声で優しく歌いかける子守歌などさまざまな要素が彼らのブルースに含まれていた。
 次に登場するのは、黒人霊歌である。
 宗教上の見地から見ると、奴隷にとって唯一の正当化された権利は、文化的に恵まれない人間がキリスト教に帰依できるということであった。しかしアメリカでは、黒人だけを教会員とする教会は、黒人たちがほんのしばらくのあいだ白人の支配から逃れて自由を享受できる唯一の場だった。教会は、一時的とはいえ、彼らの魂をその不幸な境遇から救いだし、実際には、死んで初めて奴隷の身分から解放されることを教えたのである。
 その後、黒人たちはリズム・アンド・ブルースをつくりだした。これはブルース以上に流行し、ダンス音楽によりふさわしいものだったが、言語の正しい定義からすれば低級なものであり、大衆の、大衆による、大衆のための音楽である。バック・ビートや三連音符の指定数字、そして警笛や鋭い音を出すホーン奏者(とくにサキソフォン奏者がそうだが)などが登場して、声でなく楽器でもってブルースを"叫び立てた"のである。[……]
 これらの音楽[サウンド]の源泉は、いまでもアメリカにあるのだ。
 音楽をつくることは審美的な努力でもなければ、まして商業的な努力でもなく、この世に生まれ、成長し、生き、そして死ぬことの中に本来そなわっているものなのである。そして、忘れられない出来事は音楽によって祝われるのだ。赤児の誕生、少女の成人の儀式、花嫁の嫁入り、豊作などはすべて、音楽によって祝われるのである。また、政治的事件も同様である。たとえば、カメルーンのバナムでは政府の閣僚が絞首刑に処せられたときにそれを記念する歌がある。
 アフリカ音楽の概念は、ヨーロッパの形式主義的なハーモニー理論とはほとんど無関係である。むしろ、インド音楽とよく似ていて、五音音階(ときには全音階の場合もある)、豊かな旋律、半音より小さな音程(四分音以下が多く占める)、多リズムの打楽器による即興演奏などが盛りこまれている。したがって、マスター・ドラマーはバンドを"リードする"ことを許される前に多くの難しいリズムを学ばなければならない。
 しかし、楽器は主として伴奏用であって、アフリカ音楽で一番重要なのは声である。それもソロではなくてむしろ共通の地盤から発生した文化にふさわしい合唱である。この合唱の場合は、基本的な旋律より三度、四度、五度もしくはオクターブ高く、あるいは低くして主旋律によく似た旋律を歌うのである。彼らは拍子[ビート]をとって歌い、基本的な韻律を四つ以上に複雑に分解して三つの拍子記号に合わせて演奏するドラマーの打ちだす交差したリズムを生みだすために抑揚を変えるのである。
 アフリカ音楽は、人間の音声のために構成された言語に似ている。合唱隊の指揮者は一人ないし場合によって二人か三人で合唱隊に"話しかける"が、音階や調子にあまり気を使わず、むしろ歌詞の音や感じ、さらにそれが旋律とうまく調和するかどうかを配慮するのである。こうして指揮者は指揮し、合唱隊はそれにしたがって歌うというAとBの形式が生まれるのだが、それがベイシーのバンド演奏をきいたことのある人間ならよく知っている応答形式なのである。これは、多くの黒人霊歌にみられる関係である。たとえば、M・コリンスキーはその研究によって、三十六曲の黒人霊歌が西アフリカの歌と同じであり、二曲を除いた他のすべての最初のリズムが今日なおガーナやダホメーで歌われている音楽と相似していることを示した。
 歌手の後ろでマスター・ドラマーがリズムを叩きだして、他のミュージシャンに全体の曲の基調となるタイム・ラインを設定する。これに基づいて他のミュージシャンは、相互の関係を決める。アフリカ人は子どもの頃からこの生来のメトロノーム感覚を身につけるように教えこまれている。米国各地を巡業しているアフリカ舞踊団の公演を見てみれば、アフリカ文化の中での歌と踊りのあいだに存在する主要な関係はよく理解できよう。