乗越たかお『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイド HYPER』より

コンテンポラリー・ダンス徹底ガイド HYPER

コンテンポラリー・ダンス徹底ガイド HYPER

「はじめに」より。

 本書が、過去20年の日本のダンスを振り返る試みも兼ねていることは先に述べた。本文中でも必要に応じて述べてはいるが、その概略だけ書いておこう。
☆1986年を元年とする
 筆者は個人的に1986年を「日本におけるコンテンポラリー・ダンス元年」と考えている。86年は、勅使河原三郎が日本人として初めてバニョレ国際振付コンクールで入賞し、ピナ・バウシュ&<ヴッパタール舞踊団>の衝撃的な来日公演があった年である。
 この2つの出来事が、日本の特に若手ダンサーに、決定的な意識革命をもたらした。日本で「コンテンポラリー・ダンス」という言葉が本格的に使われ出したのも、80年代後半からだと思う。それ以前、新しい試みのダンスは「モダン作品」などと言われていた。これはグレアムやカニンガムといったモダンダンスにも、プティやベジャールといったモダンバレエにも使える便利な言葉だった(様々な芸術史のなかで「モダン」と「コンテンポラリー」はワンセットで語られる。たとえば文学の世界では「モダン=近代文学」「コンテンポラリー=現代文学」と使われるが、ダンスに関しては元々の「モダンダンス」の定義からしてなし崩し的だったので、あまり意味はない)。
 そして89年に伝説の国際的ダンス・イベント「ヨコハマ・アート・ウェーブ」が開かれた。これは横浜市政100周年・開港130周年記念行事で行われたもので、来日メンバーはピナ・バウシュ(ドイツ)、ダニエル・ラリュー(フランス)、<ローザス>(ベルギー)、<ラ・フーラ・デルス・バウス>(スペイン)、日本からは勅使河原三郎、<白虎社>、江原朋子、米井澄江等々、実に豪華な顔ぶれが、各国バランス良くチョイスされている。「世界ではコンテンポラリー・ダンスという、こんなにも面白い、こんなにも大きな波が来ているんだ」ということが広く認知されはじめ、どうも従来「モダン作品」と呼んできたものとは決定的に違うらしいことが誰の目にも明らかになった。そこで、耳慣れない上に長くて覚えにくい「コンテンポラリー・ダンス」などという言葉も使わざるを得なくなったのである。
[……]
☆勅使河原三郎という衝撃
 芸術はゆっくり変わることよりも、ある日突然現れた天才が何もかもを変えてしまい、後からまわりがそれを発展させて行くことが多い。60年代の土方巽、その20年後に現れた勅使河原三郎[……]もまたその役目を果たした。
 勅使河原のバニョレ国際振付コンクール[……]入賞は、特別な意味を持っていた。それは、西洋が日本人である勅使河原を「自分たちと同じダンスをする者」として認め、評価したということである。これは、後に続く若いダンサーの呪縛を解き放った。もはや「ガイジンのように踊れる」ことを目指す必要もないのだ。舞踏のように「東洋の身体」を掲げる必要もない。勅使河原は「どこにも属さない、そのかわりそこにある他はない唯一の身体」によって踊られるものこそがコンテンポラリー・ダンスであることを、身をもって示したのである。
 しかも「ひたすら倒れては起きあがる」といった、それまでのダンス言語にない動きを次々に生み出していった。ワークショップではバレエ経験者に「バレエっぽく踊るな」という。それでいて、世界水準のハイレベルな舞台を作る。「バレエを一からやる気はないけど、オレにも何かできるかも」と、いい意味で浮かれた連中が、続々ワークショップに詰めかけた。その中に、後に大成する人々が多く含まれていることも、本書を読むとわかるだろう。
 そして勅使河原が賞を取った86年に、土方巽は没しているのである。