ロラン・バルト『明るい部屋』より

明るい部屋―写真についての覚書

明るい部屋―写真についての覚書

p.139-

「写真」の明白さは過度であり、誇張されている。「写真」はいわば、そこに写っているものの姿を誇張するのではなく(事実はその正反対である)、その存在そのものを誇張するのである。現象学者の言うところによれば、イメージとは対象の虚無である。ところで、私が「写真」において措定するのは、単に対象の不在だけではない。それと同時に、それと並んで、その対象が確かに存在したということ、その対象が写真に写っているその場所にあったということも措定する。ここにこそ狂気があるのだ。というのも、今日まで、他のいかなる表象=再現物も、何らかの仲介物によらないかぎり、事物の過去を私に保証することはできなかったのだが、しかし「写真」の場合、私の確信は無媒介的(直接的)であり、この世の誰もその確信を私に捨てさせることはできないからである。そこで「写真」は私にとって、ある奇妙な媒体となり、新しい形の幻覚となる。それは知覚のレベルでは虚偽であるが、時間のレベルでは真実である。「写真」はいわば、穏やかな、つつましい、分裂した幻覚である(一方においては、《それはそこにない》が、しかし他方においては、《それは確かにそこにあった》)。「写真」は現実を擦り写しにした狂気の映像なのである。
[……]
「写真」のレアリスムが、美的ないし経験的な習慣(たとえば、美容院や歯医者のところで雑誌のページをめくること)によって弱められ、相対的なレアリスムにとどまるとき、「写真」は分別のあるものとなる。そのレアリスムが、絶対的な、もしこう言ってよければ、始源的なレアリスムとなって、愛と恐れに満ちた意識に「時間」の原義そのものをよみがえらせるなら、「写真」は狂気となる。つまりそこには、事物の流れを逆にする本来的な反転運動が生ずるのであって[……]これを写真のエクスタシーと呼ぶことにしたい。