熊野純彦『カント 世界の限界を経験することは可能か』より

カント 世界の限界を経験することは可能か (シリーズ・哲学のエッセンス)

カント 世界の限界を経験することは可能か (シリーズ・哲学のエッセンス)

p.109-

 ここまでの議論を、もういちど確認しておこう。自然のうちには、過剰な大きさによってかたちを否定してゆくもの、形式を破壊する強力さにおいて、いっさいのかたちそのものを超越するものがある。それは法外なもの、構想力にとって圧倒的に「法外なもの」にほかならない。自然がときに示すこの法外さ、その到達不可能性が、呈示不可能な理念の「呈示」となる。それは呈示されないものの呈示、現前することを否定すること自体による現前化であり、不可視そのものを、不可能性との境界において呈示することなのであった。
 ところでしかし、不可能性との境界とはなんだろうか。べつの面からも考えてみる必要がある。ピラミッドと富士の例にもういちど立ちかえってみる。
 ある巨大な対象について、それが「崇高なもの」であるという思いをいだくためには、適正な隔たりが必要であった。近づきすぎれば部分しか目に入らず、したがって全体の大きさは逃れさり、あまりに遠ざかれば、全体そのものがちいさく見えて、部分を総合してゆく困難がそもそも生じない。巨大な対象について、構想力による把握と総括がなお可能であるのなら、ひとは対象にもっと近づかなければならない。全体を総合することが端的に不可能なのは、対象にひどく近づきすぎた場合であろう。その場合ひとは、対象から距離をとりなおす必要がある。適正な距離とは、そのばあい、ひどく微妙な一点においてなりたつことになるだろう。−−そうであるとすれば、「端的に大きなもの」としての「崇高なもの」(数学的に崇高なもの)は、厳密にいえば、「把握」と「総括」という構想力のはたらきがなお可能である大きさと、そのはたらきがもはや端的に不可能となってしまうような大きさのあいだに生起する、ぎりぎりの境界において感じとられていることになる。
[……]
 とすれば、構想力にたいして「法外なもの」である、つまり「大きすぎる」とは、ほんとうは、「大きさ」をたんに端的に超越している、その意味でかたちを超えている、ということではない。大きすぎるもの、端的な大として(数学的に)崇高なものは、構想力によってまとめあげることが可能な大きさの最大限を、いま超えようとしているものでなければならない。それはしたがって、構想力にとっての可能性と不可能性それ自体の<境界>上に揺らいでいるもののことである。