廣松渉『マルクスの根本意想は何であったか』より

マルクスの根本意想は何であったか

マルクスの根本意想は何であったか

p.125-

 マルクス・エンゲルスは、主観性と客観性との対立の止揚、精神と物質、人間と自然、これらの対立性の止揚を、学校哲学風の存在論という形で論考しているわけではありません。彼らは、また、それを"弁証法唯物論"なるものの体系的講述という形で展開してみせたわけでもありません。それは、さしあたり、後に唯物史観と呼ばれる次元での議論として開陳されております。コメントはあと廻しにして、まずは、マルクス・エンゲルス唯物論の立場を標榜するようになって以後、著作らしい著作として初めて執筆され、俗に"唯物史観誕生の書"と呼ばれる遺作『ドイツ・イデオロギー』に即して、直截にみておきましょう。[中略]
「人間と自然との関係についての重大問題(乃至は、ブルーノ・バウエル式にいえば、"自然と歴史とにおける諸対立"−−まるでこれらがお互いに分離した二つの"事物"であるかのように、人間は必ずしもつねに歴史的な自然そして自然的な歴史を眼前にしているのではないかのように−−という問題でさえ)、実はこの大問題は、次のことを洞見すればおのずと壊滅する。それは、すなわち、あの大評判の"人間と自然との統一"なるものは、産業の場面で昔から厳存していたものだし、産業の発展の高低に応じて時代ごとに別様な在り方で厳存してきた、ということである」〔文中()内はマルクスの挿入、地の文はエンゲルスの書き下し稿〕。
 この一文では、前後の文章を読めば一層はっきり致しますが、人間と自然との統一というフォイエルバッハのモチーフを継承しつつ、但し、フォイエルバッハにおいてはこの統一性が真に把握されていないことの批判の上に立って、「産業」という場に定位してこそ「人間と自然との統一性」の実相を把握できるという視座が表明されていること、この点は一読して明らかな通りであります。
 人間と自然との統一というこの意想は、デカルトこのかたの近代哲学の地平、精神と物質、主体と客体、人間と自然……の二元的分離・対立の地平を超克しようというモチーフと当然かかわります。このモチーフは、先ほど申しました通り、ドイツ古典哲学の展開の途上、それと自覚されぬまま追求される運びとなり、ヘーゲル、および、ヘーゲル左派の一部で、或る程度まで自覚化されるようになっておりました。がしかし、それは彼らが試みたようないわゆる哲学の次元では成就されるべくもない。これを成就するためには、人間と自然との現実的な相互規定・相互統一の現場たる「産業」に定位しなければならないということ、この視座を自覚的に表明したのが『ドイツ・イデオロギー』における唯物史観なのであります。[中略]
 議論の脈絡を乱しかねないとは惧れつつも、敢て若干のコメントを挿んでおきますと、ここでいう「産業」なるものの存在論的な意義に注目していただきたいのです。「産業」などといえば、そういう形而下的なものは、哲学とは直接の関係がない、と言われかねません。ないしは、せいぜい、社会哲学の次元でなら問題になるとしても、哲学の根本的な場面では問題外だと言われかねません。それは、しかし、マルクス・エンゲルスが産業とか生産とか称するもののもつ存在論的な意義を人々が看過するところから生ずる議論であります。勿論、マルクス・エンゲルスは、何かしら崇高な"天上"の産業とかいったものを論じているわけではなく、事柄としては、熟知のあの生産・産業に止目しております。要は、しかし、従来の哲学的世界観が逸していたこれのもつ存在論的意義を把え返すことに懸ります。