アンリ・ポアンカレ『科学の価値』より

科学の価値 (岩波文庫 青 902-3)

科学の価値 (岩波文庫 青 902-3)

p.134-

経験は空間が三次元であることをわれわれに証明してはくれない。経験の証明するのは、そのようにすると、とりつくろいの数が最小限ですむから、空間は三次元であるとするのが便利だ、ということなのである。[……]
 経験は、したがって、ただ一つの役割しか演じなかった。きっかけの役目を果したのである。とはいえ、この役割はきわめて重要であったことを失わない。わたしはこれを際立たせて見せることを必要だ、と思ったのである。もしも、かりにわれわれの感性に先験的に課せられる形式があって、それが三次元であるというのならば、この役割は無用であったことになるだろう。
 そういう形式は存在するのだろうか。いや、なんなら、われわれは三次元より多くの次元を持った空間を表象できるのか、と言い直してもいい。それにしても、まず第一に、この質問はどんな意味を持つのだろうか。言葉のほんとうの意味においては、われわれは四次元の空間も三次元の空間も表象することができないのは明らかである。そもそも、それら空間を空なものとして表象することはできない、また、四次元空間のなかにおいても三次元空間のなかにおいても、物を表象することはできないのである。その理由としては、第一に、これらの空間はいずれも無限なので、われわれは空間のなかにおける図形を表象することはできないはずだからである。言い換えると、全体のなかにその部分を表象しようとすれば、全体を表象しなければならないことになるが、この全体は無限なので、これは不可能事だからである。第二に、これらの空間は両方とも数学的連続体であり、われわれは物理的連続体以外のものを表象できないからである。第三に、これらの空間はいずれも等質であるのに、われわれの感覚を閉じ込める枠には限界があるので、等質ではあり得ないからである。
 こんなわけで、提起されている問題は次のようにしか解釈することができない。すなわち、上に述べた経験の結果が違っていたとして、われわれは空間に三より多い次元を与えるようになってしまった、と想像することは可能であろうか、というのである。たとえば、眼の調節感覚がその集中作用感覚といつでも一致するとは言えないと想像することが可能だろうか。あるいはまた、第二節で述べておいた実験の結果、「触覚は遠隔作用をしない」と言い表わしておいたが、これらの実験によって、われわれが逆の結論に導かれるのだ、と想定することが可能だろうか。
 明らかにそれは可能である。実験を考える以上、すでにそのことだけで、互いに相反した二つの結果を想定することになるはずである。したがって、これは可能ではあるが、しかし、むずかしい。というのは、そのためには、長期にわたる個人的な経験や、さらに、長期にわたる人類の経験の結果であるところの連想の大群を克服しなければならないからである。われわれは先験的形式の純粋直観を持っていると言われるが、この形式を形作るものはこれらの連想(ともかくも、これら連想のうちでも、とくに祖先から受け継いだ連想)なのだろうか。だとすると、どういうわけでその形式は分析を受け付けないと公言し、その起源を探る権利をわたしに拒むのか、わたしにはその理由を理解することができない。