『阿部薫 1949-1978』より

阿部薫1949~1978

阿部薫1949~1978

中上健次「金属神に仕える現代のシャーマン」から。

 考えてみればコルトレーンやアイラーの奏でるフリージャズの熱狂とは奇異な熱狂だった。
 六〇年代末の熱狂は、振り返ってみれば、精神分析される際に使う夢に似ている。毎日、電車に乗ったし、歩いた。私ではなく十八歳の〈私〉が、すりきれたセーター姿で、ボルヘスの「不死の人」のようになにもかも沸騰して熱い都会を歩き廻った。
 都会には東京という名があるが、ニューヨークであってもフランクフルトであってもよかった。歩き疲れた頃、そこが行きつくべき目標の地だったように、モダンジャズ・スポットに入り、コーラを飲みながら耳をろうするような音量でかけられたフリージャズを聴く。
 新宿の「ピット・イン」開設当時、生のジャム・セッションを聴けたので、たびたび行ったが、サックスを吹いていた夭折した阿部薫に会った記憶はない。ジャズ批評をやる小野好恵は、私が阿部薫に会っているはずだというが、すっぽり記憶が取れている。
 今、手元に阿部薫が読んでいたジャック・デリダ『声と現象』という本がある。こんなところに線がひかれてある。
《ところで、われわれは一方において、イデア性をも、またあらゆる形式のもとにおける生ける現前をも最もよく維持するように思われる記号作用の活動領域−すなわち表現の資料−は、声(phone')としての気息の精神性であること、また他方において、イデア性という形式における現前性の形而上学である現象学は、同時に一種の〈生の哲学〉でもあるということ、この二点をよく考えてみなければならない》
 線をひいたのは阿部薫なのか誰なのか分からない。ただ阿部薫ジャック・デリダをその当時読んでいたことは確かだ。そう考えると、かつての熱狂の夢が分析しがたい謎をまた一つ含み、私の前に立ちふさがる。