ロラン・バルト『テクストの出口』より

テクストの出口

テクストの出口

「《長い間、私は早くから床についた》」から。

愛する者たちを語るということは、彼らが生きたのは(そして、多くの場合、苦しんだのは)《無駄》ではなかったことを証言することです。たとえば、すばらしいエクリチュールを通して、プルーストの母の病い、ボルコンスキイ老公爵の死、その娘マリアの苦しみ(いずれもトルストイ自身の家の人々です)、マドレーヌ・ジードの悲嘆(『今ヤ彼女ハ汝ノウチニアリ』の中の)は、「歴史」の虚無に埋没することはありません。これらの生、苦痛は、拾い上げられ、正当化されます(そのように、ミシュレの「歴史」における「復活」というテーマを理解すべきでしょう)。[……]私は言述についての言述をやめます。世界はもう対象の形では私の所にやってきません。エクリチュールの形で、つまり、実践の形でやってきます。私は知の別のタイプ(「アマチュア」のタイプ)に移ります。そして、その点でこそ、私は方法的になるのです。