マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』より

暗黙知の次元 (ちくま学芸文庫)

暗黙知の次元 (ちくま学芸文庫)

「序文」から。

暗黙知の構造によれば、すべての思考には、その思考の焦点たる対象の中に私たちが従属的に感知する、諸要素が含まれている。しかも、およそ思考は、あたかもそれらが自分の体の一部ででもあるかのように、その従属的要素の中に内在化(dwell in)していくものなのだ。したがって、ブレンターノが説いたように、思考は必ず志向的になり、それのみならず、思考には、必然的に、思考によって統合されることになる基礎的諸要素が詰め込まれることになる。思考は「〜から〜へ」という志向的構造を持つということである。
 かように暗黙知の構造に基づく機能がさまざまあるということは、暗黙知が豊かな意義に満ちた思考の振る舞いであることの、証なのである。厳密に明示的な機能を並べ立てて知の本質と正当性を説明することは不可能なのだ。もっと深い掛かり合いの実例を引き合いに出すまでもなく、その不可能性は自明の理だと思われる。そう考えてくると、他の何かが視界に入ってくる。それは実存主義の明示的思考とは対極にあるものだ。従属的諸要素は、私たちが自分の体を利用するのと同じように、利用される。ということは、新しい思考は、ことごとく、実存的な掛かり合いとみなされるということである。
 かくして私たちは便利なモデルを手にしたことになる。私たちは、そのモデルを使って、(実存主義のように)人間の運命に関わる大問題などには言及しなくても、主たる実存的行為のすべてを再現することができるのだ。私は、本書で、たとえば次のようなことがらを検討することになろう。創造性が新しい価値を生むとき、それは、含意によって、暗黙のうちに生むことになる。つまり私たちは新しい価値を明示的に選択することはできず、新しい価値を創造したり採用したりという行為そのものを介してその新しい価値に従属しなければならない、ということだ。