デリダ「Fors−ニコラ・アブラハムとマリア・トロックの稜角のある言葉」より

現代思想1982年2月臨時増刊号 総特集=デリダ読本

現代思想1982年2月臨時増刊号 総特集=デリダ読本

記号の「動機づけ」あるいは「恣意性」、言語の「擬態的」な諸力あるいは幻覚の問題系は、もしそれがこうした固有名詞ないし署名の諸効果についての新しい理論を経由しなかったとしたら、実際に恣意性の効果をも動機づけの効果をも生み出すところのもののまわりをめぐることになろう。それは今日もなお極めてわずかなもの、つまり国語の「内的」システムの中で語る自我にとっての「言葉」と「物」の意識的諸表象に限定されていることになろう。記号の恣意性の原理に支配された、このような「内的」はたらきの厳密な限界内においては、動機づけのいかなる効果も、たとえ幻覚的なものであろうと、説明し得ない。『英語の単語』というあのマラルメの夢、一国語のミメシス的動機づけのシステムを組立てるというあの異様な企ては、遊戯以下のもの、「その話はしないのが適当な……必要に迫られての仕事」以下のもの、原理を欠き未来を欠いた一個の錯乱にとどまるであろう。しかし、言語とエクリチュールにおいてこうしたイディオムの欲望あるいは欲望のイディオムが生み出すものについては別であろう。それらはシステムの中でシステムを強い、一般的(国民的)コードの数々を曲げて、いくつかの取引を、もはやそうなると純粋にイディオマティック(絶対に解読不可能なもの)でも、単純に共同のもの(便宜的で透明なもの)でもない経済の中で行なうことによって、それらのコードを開発するのである。